命を賭した戦法
乱世の戦国時代がいよいよ終わりつつあった1600年、かの関ヶ原の戦いで、島津義弘が企てた「捨て奸(すてがまり)」という戦略がありました。
これはなんと、敵軍の中を正面突破して、とにかくいくら犠牲を払ってもいいから敵をできるだけ長い時間足止めし、本隊だけは逃れさせるというものでした。
当時は、徳川家康と石田三成が、それぞれ大名たちを動員して東軍・西軍に分かれて戦いを繰り広げていました。島津は西軍です。しかし次第に形勢不利になっていく中で、撤退戦略として採用されたのが「捨て奸」だったのです。
部隊の最後尾を務めるしんがりの中から、さらに少部隊を置き、追ってくる敵を食い止めるために死ぬまで戦わせます。
小部隊が全滅したらまた新しく小部隊を置き、敵を食い止める。これを繰り返し、その間に本隊と大将が逃げることができれば成功と見なす、という戦法でした。
島津隊は退路に配置した銃を持つ兵士たちに、あぐらをかいて座らせました。
膝を立てて銃を構えるのではなく、あぐらにしたのは重心を固定して命中率を上げるためだったそうです。このことから、捨て奸は「座禅陣」とも呼ばれています。
そうして敵の指揮官が追ってきたら、兵士たちは狙撃し、槍で突撃するのです。
この戦法が行えたのは、島津隊の銃の装備率や、経験値が豊富だったからこそです。
これにより東軍は、松平忠吉と井伊直政が重傷を負っています。
そして島津軍は見事に敵中突破を果たし、大将である島津義弘を含む約80名が生きて戻ることができました。