「あぁ。お城で開かれる舞踏会に参加して、素敵な人(あわよくば王子様と)と巡り合いたい……」
おとぎ話でシンデレラが願ったように、日本でも華やかな場所に出てコネを作り、我が身の栄達を図る人は無数にいました。
平安時代の貴族たちもその例に洩れず、圧倒的大多数の下級官人は皇族をはじめとするやんごとなき方々に接近するため、あの手この手で苦闘しています。
今回はそんなエピソードの一つを紹介。彼らの涙ぐましいチャレンジを、どうか知ってあげて下さい。
もぐり込んではみたものの……。
時は平安中期の永観3年(985年)2月13日、円融上皇が紫野(むらさきの。現:京都市北区)で子日(ねのひ)の御遊(ぎょゆう)を催されました。
当日のお出かけには左大臣の源雅信(みなもとの まさざね)・右大臣の藤原兼家(ふじわらの かねいえ)以下そうそうたるメンバーが供奉し、都じゅうから雲のような見物者が押しかけるほどの一大セレモニーだったようです。
さて。盛大な饗宴の後には陛下の御前で歌を披露するべく、当世を風靡する歌人たちが召し出されました。
紀時文(きの ときふみ)、清原元輔(きよはらの もとすけ)、平兼盛(たいらの かねもり)、源重之(みなもとの しげゆき)……など、当時の歌壇を彩る豪華メンバーが勢ぞろい。
「ん……?」
行列の中に、曽禰好忠(そねの よしただ)、中原重節(なかはらの しげとき)の姿が。彼らは招かれていない筈です。
実はこの好忠、源重之の伝手で宴席にもぐり込み、あわよくば歌名を高めようと目論んでいたのでした。たとえ不発でも、御前へ上がれれば最低限の褒美にだけはあずかれます。
重節にしても思いは同じで、彼ら下級官人にとってこういうチャンスは見逃せないものでした。
が、同席していた藤原実資(ふじわらの さねすけ)はそんな彼らを見逃してはくれません。
「そなたらは此度の席に招かれておらぬはず……下がれ!」
ここで好忠は重之に助けを求めるも、ふいと目線を逸らされてしまいます。
(あぁ……っ!)
中には「(重之とコネがあるらしいし)曽禰殿は入れてやってもいいのではないか」と擁護の声を上げる者もいたようですが、結局は二人とも追い立てられてしまったのでした。