平泉に栄華を誇った奥州藤原氏の祖・藤原経清が歩んだ壮絶な生涯についてご紹介します。
平安時代後期に東北の地で起きた「前九年の役」は、俘囚の長である安倍氏と源頼朝の祖先源頼義の間で行われた戦乱でした。
藤原経清は、安倍氏側について「前九年の役」を戦い抜き、源頼義率いる国府軍を窮地に追い込みました。その結果、経清は悲惨極まる死を遂げることとなります。
しかし、経清が安倍氏についたことで、その後の東北の歴史、しいては日本の歴史に大きな影響を与えることとなったのです。
【その1】では、陸奥守として源頼義が陸奥国府に着任したことにより、安倍頼良が恭順の意を表して、陸奥国に平和が戻ったことを紹介しました。
源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その1】
【その2】では、「前九年の役」再燃のきっかけとなった「阿久利川事件」と藤原経清が源頼義から離反した真相についてお話ししましょう。
「前九年の役」は頼義の私欲で起きた
頼義の配下が襲われた「阿久利川事件」が勃発
1056年2月、陸奥国国司の任期が終了した源頼義が京都に戻ることになると、安倍頼時は、頼義を労うために居館の衣川柵で饗応を行います。事件はこの直後に起きました。
衣川柵から胆沢城を経て多賀城へ帰る途中、阿久利川畔で宿営していた頼義の配下陣所が何者かに襲撃されたのです。これが、「前九年の役」再燃のきっかけとなった「阿久利川事件」です。
この襲撃に対し疑いの目を向けられたのが、安倍頼時の子である貞任でした。襲撃を受けた藤原光貞が犯人は安倍貞任だと密告してきたのです。
光貞:以前、安倍貞任が自分の妹を妻に欲しいと言ってきました。しかし、卑しい俘囚のお前になぞ、妹はやれないと断ったのです。今回の事件は、それを根に持った貞任の犯行に間違いありません。
これを聞き怒った源頼義は、頼時に対し貞任の身柄を引き渡すよう要求します。しかし、頼時は断固これを拒否しました。
頼義:おのれ頼時め。国司たる余の命令がきけないというのか!ならば安倍を討つまでよ。
頼義は、早急に安倍頼時討伐の軍を起こしました。ここに安倍氏と陸奥国司軍の戦いが再発したのです。