みなさんは、「百姓は生かさず殺さず」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
江戸時代の農業政策を表す言葉、として知られているかもしれませんが、実は少し誤解があったり、もっと深い意味があったりするのです。
そこで、今回の記事では、そんな「百姓は生かさず殺さず」というインパクト大の言葉について、その真意を探っていきたいと思います。
そもそも、「百姓は生かさず殺さず」は誰の言葉?
江戸時代の農業政策を表す言葉「百姓は生かさず殺さず」というものですが、これは徳川家康が言ったという説と、家康の謀臣(ぼうしん:計略に優れた家臣・家来のことを指します)であった本多佐渡守正信(ほんださどのかみまさのぶ)が言ったという説があります。
徳川家康が言ったという説の根拠となるのは『落穂集』という資料。これは北条氏の重臣である大道寺政繁のひ孫に当たる大道寺友山が享保12年(1727年)ごろに書いたもので、家康の関東入府のころからの事績が記されています。
しかし、書かれた時期を見てもわかる通り、これはあくまでも“伝聞”としてのもの。あまり定かとは言えないと主張する人もいます。
一方で家康の謀臣・本多佐渡守正信の言葉とする説の根拠となるのは、『江戸雑録』という資料。これは江戸学の祖といわれる三田村鳶魚(えんぎょ)が記したものです。
彼の言葉として、「百姓は、天下の根本なり。是を治める法あり。(中略)百姓は、財の余らぬように、不足なきように治むる事、道なり」というものがあり、それが「生きぬように死なぬように」「百姓は生かさず殺さず」という言葉に置き換えられていったと言われています。