危機一髪!とっさの機転で暗殺を免れた伏見天皇「浅原事件」の顛末

多くの心ある日本人にとって、国民統合の象徴として心のよりどころとなっている皇室。

初代の神武天皇から令和の今上陛下まで126代の天皇陛下が日本国を治(しら)されてきましたが、二千六百年を越える永い歴史の中には凶賊に襲われたり命を落とされたりなど、幾多の困難がありました。

今回はそんな一人、鎌倉時代の伏見天皇(ふしみてんのう。第92代)が暗殺されかけたエピソード「浅原事件(あさはらじけん)」を紹介。

果たして陛下は、どのように難を逃れることができたのでしょうか。

御所へ乱入した3人の凶賊

時は鎌倉時代後期の正応3年(1290年)3月9日夜、賊徒が御所を襲撃しました。

主犯の名前は浅原八郎為頼(あさはら はちろうためより)。息子の浅原太郎光頼(たろうみつより)と浅原八郎為継(はちろうためつぐ)を伴い、父子3人での凶行です。

元は甲斐源氏の名族で強弓の使い手でしたが、弘安8年(1285年)11月17日に勃発した幕府内の権力抗争「霜月騒動(しもつきそうどう)」のとばっちりを受けて所領を没収されてしまいます。

食い扶持を失った為頼は悪党となって犯罪行為に走り、指名手配とされていましたが、思うところあって畏れ多くも天皇陛下の寝所がある二条富小路殿へ乱入したのでした。

「誰k「騒ぐな!」

為頼は女官(女嬬)の一人を取り押さえ、天皇陛下の居場所を訊ねます。

歴史物語『増鏡(ますかがみ)』によれば、賊徒はいずれも背丈高く緋糸縅の鎧と赤地錦の鎧直垂をまとい、赤鬼のような恐ろしい形相であったと言います。

【原文】……丈高く恐ろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂に、緋をどしの鎧着て、只赤鬼などのやうなるつらつきにて……

「……御門(みかど。帝)はいずこにおわすか」

「あ、あちら、南殿より北東の隅にございます」

ここで正しい方角を教える馬鹿はいない……女官はとっさの判断で別の方角を指し示すと、為頼らはそれを信じてズカズカ行きました。

「賊、賊にございまする!」

女官は別ルートから逃げて女性陣に通報、伏見天皇に女装をさせた上で三種の神器と皇室に伝わる琵琶の玄象(げんじょう)、和琴の鈴鹿(すずか)などを持って無事に避難しおおせたのでした。

一方、為頼らは伏見天皇を見つけられぬまま御所内をさまよい歩き、駆けつけてきた警護の武士ら50数名に完全包囲されてしまいます。

「おのれ、ただでは死なぬ!」

かねて自慢の強弓を唸らせた為頼、その矢には「太政大臣源為頼(だいじょうだいじん みなもとの ためより)」と記すなど、いささか常軌を逸しており、死に物狂いで戦ったものの衆寡敵せず、ついには3人ことごとく自害したのでした。

中でも八郎為継の自害は凄絶で、ただ命を絶つばかりでなく、腹を掻っ捌いて腸をズルズルと繰り出して敵に示したと言います。『増鏡』によれば享年19、賊ながらあっぱれな若武者ぶりと言うべきでしょうか。

2ページ目 大覚寺統の陰謀だった?事件を告げる不吉な凶兆も

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