マイナーな「敗者」北条時行
週刊少年ジャンプで、北条時行(ほうじょう・ときゆき)を主人公とした漫画『逃げ上手の若君』が連載されていますね。連載が始まった時は、「まさか北条時行が主人公とは!」と驚いた歴史ファンも多かったと思います。
それくらい北条時行はマイナーな存在と言えます。実際、日本史は教科書で学んでそれっきりだという人は、名前を聞いても全然ピンと来ないでしょう。それも当然のことで、歴史上に名を残すのは「勝者」と決まっていますが、時行は「敗者」です。
しかし歴史をつぶさに見てみると、時行は、北条家最後の生き残りとしてあの足利尊氏を翻弄したすごい武将であることが分かります。今回はそんな彼の足跡を辿ってみましょう。
中先代の乱で鎌倉を奪い返す
北条時行は、鎌倉幕府を実質的に運営していた執権・北条氏の嫡流です。
鎌倉時代末期になると、有力御家人たちは北条氏に反抗するようになり、倒幕を企てる後醍醐天皇につくようになりました。この動きを抑え込むことができなかった北条氏は滅ぼされ、鎌倉幕府も滅亡してしまいます。
当時、実質的に北条氏の棟梁であった北条高時(たかとき)は鎌倉で敗死し、その遺児となった時行は、支援者を頼って信濃国に落ち延びて身を隠します。
幕府を滅ぼした後醍醐天皇は「建武の新政」として自ら政治を行うようになり、天皇中心の社会を作ろうと考えます。しかし現実に即さない貴族優先の政治となってしまったため、有力武士はこの新政からも離れていきます。
その雰囲気を見て取った時行は、鎌倉幕府再興の兵を挙げました。建武2年(1335年)のことで、これに先んじて北条高時の弟・泰家(やすいえ)と公家の西園寺公宗(さいおんじ・きんむね)による陰謀が先にあったのですがこれが失敗に終わり、この陰謀に乗る予定だった時行は、独自に諏訪頼重(すわ・よりしげ)らと共に信濃国で挙兵したのです。
彼は鎌倉幕府の残党や、新政に不満を抱く御家人をどんどん味方につけて、あっという間に鎌倉に攻め入り奪還しています。
これで北条氏再興かと思われたのですが、京都から足利尊氏が討伐軍として派遣されると、わずか20日で鎌倉を追われることになりました。
この戦いは「中先代(なかせんだい)の乱」と呼ばれています。鎌倉時代の北条氏を「先代」、室町幕府の足利氏を「当代」と呼ぶことから、その間である時行を「中先代」と呼ぶようになったのです。
足利尊氏は、ここで鎌倉を支配したことを機に後醍醐天皇に反旗を翻し、その後京都にまで攻め上り、後に室町幕府を開くことになります。