徳川四天王かつ筆頭の功臣!家康の天下取りに貢献した武将・酒井忠次の生涯

雲川ゆず

みなさんは、酒井忠次(さかいただつぐ)という人物の名前を聞いたことがありますか?

学校の歴史の授業で扱われるようなタイプではないかもしれませんが、実は優秀な武将なのです。

そこで今回の記事では、そんな酒井忠次について彼の人生や人柄について、詳しくご紹介したいと思います!

酒井忠次の生涯

酒井忠次は、大永7年(1527年)三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)の酒井忠親の次男として生まれました。父は、徳川家の前身である松平家の家臣でした。

酒井忠次は、元服したあと、家康の父である松平広忠に仕えました。竹千代(のちの家康)が今川家に人質として赴いた際にも同行しました。ここから家康に仕え、あらゆる功績を残しました。

例えば、1556年に柴田勝家が攻めてきた際に、忠次は籠城するのではなく、城外に出て戦い、勝利を収めました。柴田勝家は戦国時代きっての名将ですので、それを考えると、酒井忠次も戦上手であったことがうかがえます。

1585年には、家康第一の重臣となりました。家康の天下取りに大いに貢献した忠次ですが、眼病を患い、家督を長男の家次に譲り、隠居。慶長元年(1596)の秋に、忠次は京都の桜井屋敷にて亡くなりました。

2ページ目 「背に目を持つごとし」酒井忠次ってどんな人?

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