旧幕府側の暴発を誘い、鳥羽伏見の戦いの口火となったといわれる薩摩藩邸焼打ち事件。
【第1回】では、薩摩藩邸焼討ち事件の経緯として、大政奉還から王政復古のクーデターを経て、維新政府が発足したことを紹介した。
討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【大政奉還〜王政復古の大号令編】
1867年10月15日、徳川慶喜は政権を朝廷に返上する大政奉還を行った。だが、その後も、慶喜は400万石を有する大大名として、公然たる政治執行力をもって君臨していた。討幕派にとって、こ…
【第2回】では、薩摩藩邸焼打ち事件が起きるにいたった、幕末の政治状況として、大王政復古の大号令後の維新政府、さらには、復権を画策する徳川慶喜の動向についてお話ししよう。
徳川慶喜の大坂下向
1867(慶應3)年12月9日、明治天皇が「王政復古の大号令」を発し、維新政府が産声を上げた。
その由を伝達するため、翌10日に松平春嶽が二条城を訪れた。
慶喜の将軍職辞任を認める。その上で政府費用として徳川家所領のうちから200万石を上納せよ。
春嶽から維新政府の要望を聞いた慶喜は、おそらくは腸が煮えくり返る気持ちであったろう。だが、そうした態度をおくびにも出さず、その日の深夜、二条城に駐留する全将士、約1万人を率いて大坂に退いて行った。
もちろん、「王政復古の大号令」の内容を漏れ聞いた二条城の将士たちが憤激したのはいうまでもない。薩長討つべしとの主戦論に大坂城中は包まれた。
こうした動きに対し慶喜は、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬に兵の暴発厳禁を命じた。さらに、激昂する将士たちには、こう言い聞かせた。
自分には深謀がある。しかし、それを今明かすことはできない。事を成功させるためには、謀が漏れてはいけないのだ。ここは早まるな。
慶喜の深謀とは、強力な旧幕府の軍事力をバックに維新政府に圧力をかけつつ、自分が首班となる議院政権の樹立であった。そのためには、国の内外に対し、いまだ日本の中心は徳川家であることを印象付けねばならない。