戦国時代、人質から天下人にまで成り上がった徳川家康(とくがわ いえやす)。その覇業を支えるべく、苦しい時代を共に乗り越えた三河譜代の武士たちですが、そのほとんどは忠義の篤さに対して冷遇されることとなります。
「平和になりつつある以上、武辺者の槍働きよりも処世術とソロバン勘定に長けた者が求められる」
確かにそれが世の習いとは言うものの、泥にまみれて血を流し、主君の窮地に血路を斬り開くより、調子のよい時だけ勝ち馬に乗り、口先だけでご機嫌を取る者が高く賞せられるようでは、いざ有事に誰も戦ってくれません。
「御家(主君)は譜代あってこそ、譜代は御家あってこそ」
永年の不遇にもめげることなく家康にズケズケとモノ申したのは、後に「天下の御意見番」を自称した大久保彦左衛門(おおくぼ ひこざゑもん。大久保忠教)。
腰の刀は飾りじゃない!長さ規制に反発した戦国武将・大久保彦左衛門のエピソード
彦左衛門は80歳で世を去るまで生涯現役を貫きますが、その気力・体力を支えた一つが、鰹節(かつおぶし)を好んで食したことにあるそうです。
今回はそんな彦左衛門と鰹節にまつわるエピソードを紹介したいと思います。
井伊直政のお見舞いに
ある年のこと。彦左衛門と仲のよかった井伊直政(いい なおまさ)が病床に伏した時、彦左衛門が見舞いに行ったそうです。
「井伊殿、彦左衛門が参ったぞ!」
いつもの如く偉そうに、ずかずかと屋敷へ上がり込む彦左衛門ですが、片や3,000石の旗本に過ぎない彦左衛門に対し、直政は18万石の大名。
普通なら、いくら仲良しでも少しは気を遣いそうなものですが、よくも悪くも普通ではない彦左衛門、そんなことはいっかな気にせず、勝手知ったる我が家のごとく直政の病床までやって来ました。
「おぉ……彦左殿、しばらくぶりじゃな」
戦さ場では「井伊の赤鬼」と恐れられる猛将も、さすがに病はこたえるようで、力なく声を絞ります。
「ははは、鬼の霍乱か。そんな貴殿に、ホレ」
彦左衛門は笑いながら、懐から見舞いの品を取り出しました。
「これは……?」