日本三代怨霊に数えられる「崇徳天皇(すとく)」は、歴代の天皇の中でも不運な生涯を送り、恨みを抱えこの世を去ったという。
今回は【前編】に続き、崇徳天皇の生涯をご紹介する。
前回の記事軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【前編】
平安時代。第75代天皇に即位した「崇徳天皇(すとく)」は、日本の三大怨霊に数えられている。その背景には不幸な生い立ちと生涯が深く関係している。今回は、家督争いの末に配流され、非業の内に崩御した…
傀儡としての崇徳上皇
政治の実権を鳥羽法皇に奪われた崇徳上皇だったが、表向きの関係性にわかりやすい対立がなかったともいわれている。
崇徳上皇には、女房として身近に仕えた兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間に第一皇子である重仁親王があり、天皇即位の権利を有していた。このことが崇徳上皇にとって希望となっていたのかもしれない。
1155年。近衛天皇が17歳で崩御する。重仁親王は有力な候補となるが、後継天皇を決める会議により、鳥羽法皇の第四皇子であり崇徳上皇の弟である雅仁親王が即位し、後白河天皇となった。
後白河天皇には第一皇子(後の二条天皇)がおり、息子への譲位は規定路線であった。この決定によって崇徳上皇による院政の可能性は事実上絶たれることになる。