日本の歴史上、最も有名なクーデター「本能寺の変」を成した戦国大名「明智光秀(あけちみつひで)」。一躍天下人候補に躍り出た光秀だったが、同じく織田信長の家臣であった羽柴秀吉との戦いによって敗死した。
光秀と秀吉が争った「山﨑の戦い」における光秀敗死の原因には、蜜月関係にあった二人の戦国武将の存在が大きく関わっていたという。今回は、明智光秀を裏切った二人の戦国大名と光秀の関係性についてご紹介する。
1.細川藤孝/幽斎(ほそかわふじたか/ゆうさい)
細川藤孝は1534年に京都で生まれ、前半生は足利将軍家に仕えた。1546年に足利義輝の偏諱を受け藤孝と名乗る。義輝が暗殺された後は、弟である覚慶(15代足利将軍・足利義昭)の将軍擁立に紛争した。
明智光秀と出会った時期は明確ではないが、藤孝は義昭の擁立活動の際に越前国の朝倉義景を頼った。当時の越前には美濃国を追われ浪人生活をしていた光秀がいたとされ、二人はこの時期に対面していると考えられる。
藤孝は光秀と共に幕臣として義昭を支えた。尾張国の織田信長が義昭を伴い上洛すると、二人は義昭と信長の間を繋ぐ橋渡し役として機能した。
義昭と信長の関係が悪化し対立関係が浮き彫りになると、光秀と共に信長の家臣として行動。各地の戦では光秀の与力(大名に加勢として附属した組下大名)として尽力した。
1578年には、光秀の三女である「玉(後の細川ガラシャ)」と藤孝の嫡男「細川忠興(ただおき)」が結婚。藤孝と光秀は親戚となった。
戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」【前編】
城を十重二十重に取り囲み、今にも攻めかかろうとしている敵の数は1万5千。対する味方は、素人まで動員してかき集めた500人。味方主力は遥か遠く関東地方にあり、周辺には援軍を頼める勢力もなし。16…