優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【中編】

一之瀬 陽平

戦国大名朝倉氏最後の当主「朝倉義景」。結果的に一族は滅亡することになるが、その原因には当主・義景の気質が深く関わっていた可能性が否めない。

今回は【前編】に続き、優柔不断といわれた義景の行動を考察してみたい。

前回の記事

優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【前編】

戦国期。平安時代末期から続く名門一族「越前朝倉氏」は、織田信長率いる織田軍によって本拠地を蹂躙され滅亡した。朝倉氏滅亡時の当主「朝倉義景(よしかげ)」には様々な言い伝えが存在するが実際はどのような人物…

優柔不断エピソード①「上洛を尻込み」

1565年に後の足利15代将軍「足利義昭」が義景を頼って越前に身を寄せる。義景は来訪を歓迎した。義昭は自身の将軍就任のために義景を伴う上洛を求めたが、義景は首を縦に振ることはなく3年余りが過ぎる

結果的に義昭は義景を見限り、上洛の意思を示した織田信長の元へ去ってしまう。この義景の判断が朝倉氏滅亡の遠縁の一つであるといえる。

優柔不断エピソード②「信長を二度取り逃す」

【金ヶ崎の退き口】
上洛後の義昭は足利15代将軍となることに成功する。その後も上洛要請を拒み続けた義景に対して信長は出兵し越前侵攻を開始する。義景は信長と交戦する軍の後詰めに出陣するが、刃を交えることなく一乗谷へ引き返している

1570年。優位と見られていた織田軍だったが、同盟関係にあった浅井長政の裏切りによって窮地に陥った。朝倉軍は浅井軍と共に優勢に転じるが、信長を捉えることはできず京都への退却を許している。

【姉川の戦い】
同年6月。体勢を立て直した信長は反撃を開始。浅井氏の領地姉川付近で戦となるが、義景は敦賀に留まり出陣していない。結果的に朝倉・浅井連合軍は敗北。近江南部の支配権を奪われてしまう。

2ページ目 優柔不断エピソード③「信長包囲網の放棄」

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