家督が継げなきゃ自力で家を興す!関ヶ原で活躍した信長の甥・織田長孝の武勇伝【上】:2ページ目
関ヶ原で、猛将・戸田武蔵守と一騎討ち!
慶長五1600年「関ヶ原の合戦」で父と共に徳川家康(とくがわ いえやす)率いる東軍に属した源二郎は、乱戦の中で西軍の猛将・戸田武蔵守半右衛門重政(とだ むさしのかみ はんゑもんしげまさ)と一騎討ちに。
「やぁやぁ遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ……我こそは織田河内守長孝!いざ尋常に、槍合わせ願おう!」
「ふん……若造め!この羽柴武蔵が槍の錆にしてくれようぞ!」
半右衛門は信長の弔い合戦(山崎の戦い。天正十1582年)をはじめ、数々の武功によって秀吉から羽柴の姓を名乗ることを許された歴戦の猛者。片や初陣の源二郎ですが、ここで怯んでは織田家の名が廃ります。
「吐かせ!この老いぼれめが、引導を渡してくれるわ!」
大言を口にした以上、もう後には退けません。源二郎は必死の思いで槍を突き出し、半右衛門の繰り出す老練の槍筋を受けては躱(かわ)しての大立ち回り。
「御屋形様っ!」
両雄一歩も退かないところへ、源二郎の家来である矢田太兵衛(やた たへゑ)が半右衛門の左鐙(あぶみ。足を乗せて身体を安定させる馬具)から足を外し、引きずり落としたところへ同じく家来の山崎源太郎(やまさき げんたろう)がやって来て、半右衛門の首級を掻っ切りました。
「敵将・羽柴武蔵守、わしらが大将・織田河内守様が討ち取ったぞ!」
するとそこへ、玉木五右衛門(たまき ごゑもん。津田長門守次郎左衛門信成の家来)がやって来て言いがかりをつけました。
「やいうぬら、その首級はうちの長門守様が上げたんじゃ。横取りするんじゃねぇ!」
「「何だと!」」
太兵衛と源太郎は五右衛門と口論の結果、斬り合いとなって相討ち、三人とも息絶えてしまったので、やむなく源二郎は他の者に半右衛門の首級を持たせ、家康の陣地へ向かわせたのでした。
さぁ、敵は総崩れ。どんどん追撃して更なる武功を立てる絶好のチャンスを、源二郎は活かせるのでしょうか。
【続く】
※参考文献:
桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年1月
戦国人名辞典編集委員会 編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年12月
家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典』新人物往来社、1987年11月