【豊臣兄弟!】秀長と高虎の残酷すぎる“裏の顔”…「北山一揆」残党狩りで民衆を恐怖に陥れた凄惨な記録
羽柴秀長(仲野太賀)と言えば温厚篤実な人柄で兄・羽柴秀吉(池松壮亮)の天下獲りを献身的に支えたイメージがあります。
しかし秀長も領民を徹底的に弾圧し、人々を恐怖に陥れるケースもありました。
今回は秀長が治める紀伊国(和歌山県)で勃発した北山一揆(きたやまいっき)を紹介。果たして本編では描かれるでしょうか。
甚大な被害を出しながら制圧
時は天正14年(1586年)8月、奥熊野の地侍(熊野牢人衆)が民衆を扇動、北山(和歌山県東牟婁郡北山村)で武装蜂起しました。
その動機は太閤検地に対する反発と考えられますが、はっきりとはわかっていません。
当初は在地の家臣らに鎮圧を命じたのでしょうが、思いのほか抵抗が激しく、8月28日には秀長自らの出陣を余儀なくされます。
翌9月9日の戦闘では多くの被害を出し、9月14日には重臣であった伊藤掃部助(いとう かもんのすけ)の部隊が全滅させられる事態に陥ったそうです。
それでも大軍を投入した力押しの結果、9月23日には一揆勢をほぼ制圧することに成功しました。
10月に入っても秀長は残党狩りを続けますが、この年は大雪のために兵を引き揚げます。
また春になったら、一揆勢を根絶やしにしてくれよう。執念を燃やす秀長の元に、一揆勢が降伏を申し出てきました。
もう逆らわないと誓うから、どうか赦免してほしい。しかし秀長はこれを受け入れず、必ず攻め滅ぼすと通告したのでしょう。
しかしこの時期、秀吉による九州征伐が進められており、秀長もそちらへ尽力しなければなりません。
ひとまず一揆勢の殲滅はお預けとなりますが、いつ矛先が再び向けられるか、戦々恐々としていたことでしょう。
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