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徳川家康生誕の地、龍にまつわる伝説も多く残る愛知県・岡崎城

徳川家康生誕の地、龍にまつわる伝説も多く残る愛知県・岡崎城

徳川家康生誕の地として知られる岡崎城は、15世紀中期に三河国仁木氏の守護代である西郷氏によって、築城された居館がその始まりだとされています。その後、家康の祖父に当たる松平清康が入城し、城郭を整備しました。1542(天文11)年、家康が産声を上げた頃にはまだ石垣がなく、櫓や門の屋根も茅葺だったとされています。

竹千代(のちの家康)が誕生した折には、城の上に黒雲が渦巻き、黄金の龍が現れたと伝えられています。龍にまつわる伝説も多く、別名 龍ヶ城とも呼ばれました。

1549(天文18)年、家康の父・松平広忠(ひろただ)が死去すると、岡崎城は今川家の支城とされました。1560(永禄3)年5月19日、桶狭間の戦いが発生すると、家康は今川方として大高城兵糧入れの命を遂行しており、その後も大高城の守護に当たっていました。そこに織田信長の奇襲で今川義元が戦死したことを告げる知らせが届くと、家康はその真偽を確認した後、岡崎城へ移動し、今川軍が撤退して空となった岡崎城を取り戻し、独立を果たしました。

以後、三河の拠点としての役割を果たします。幕末から明治にかけて編纂された『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄以来の名號にして、其以前は菅生郷なり」と記載されています。

本丸の北方に持仏堂曲輪、その北方下に二の丸、その北方に北曲輪、二の丸の東側には三ノ丸と東曲輪、その東に備前曲輪と大手門があった浄瑠璃曲輪、本丸と二の丸の西方下に坂谷曲輪、その西に白山曲輪と搦手口に当たる稗田門があった稗田曲輪、本丸の南は、菅生川沿いに菅生曲輪があり、それに、本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀を廻らせていました。

存城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模でしたが、1873年(明治6年)の廃城令によって廃城になります。その際、城内の天守以下の建物及び土地を払い下げ、現在は一切の建物を失い、本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみとなってしまいました。

1959年(昭和34年)には、3層5階の天守閣が再建され、現在は岡崎市のシンボルとして岡崎市民をはじめ、多くの日本人に愛され続けています。

【岡崎城 アクセス】

愛知県岡崎市康生町561−1

名鉄「東岡崎駅」より徒歩15分
愛知環状鉄道「中岡崎駅」より徒歩15分
名鉄東岡崎駅より4番のりばバス「康生町経由」乗車→「康生町」下車→徒歩5分
JR岡崎駅よりバス「康生町方面行き」乗車→「康生町」下車→徒歩5分

東名高速道路「岡崎I.C.」より名古屋方面へ3km(国道1号沿い)

【参考】

 

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