火事が頻繁に起きていた江戸。狭いところに人口が密集していたこと、木造で板葺き・わら葺き・茅葺きの屋根だから燃えやすいことが相まって、火が出るとあっという間に広がりました。日本橋では、2年に1回の頻度で大火があったそう。
当時の混乱は凄まじかった…江戸の町が焼け野原となった「明暦の大火」
明暦3年に発生した「明暦の大火」は、江戸市街の3分の2を焼き尽くす大火事でした。風が吹き荒れる中、本郷丸山本妙寺で火事が発生し、あっという間に火は広がり、ついに江戸城の天守閣は焼失してしまいます。江戸…
明暦の大火…俗に言う「振袖火事」は武家の失火?はたまた都市計画のために幕府が仕向けたもの?
江戸時代は明暦の頃、ある商人の娘に「おきく」という子がいました。その娘が花見の時に見かけた際、ある若者に一目惚れをします。彼女は彼が着ていた着物に似せて振袖を作りますが、間もなく恋の病に臥せったまま1…
江戸の大半を焼いた「明暦の大火」後、幕府はいよいよ防火対策に本腰。江戸の町はどう変わった?
明暦3(1657)年1月18日に未曾有の大火事、明暦の大火がおきたことで、幕府はいよいよ防火対策に取り掛かりました。江戸三大大火の一つ「明暦の大火」については以前ご紹介しました。[insert…
火事が起きると、町人たちが見物しようと集まっていました。そこで、「火事が起きても、まっすぐ家に帰ること。見物するものは厳しく追い払うこと」というお触れが出ていたそう。
見物人が多いと他の犯罪も起きやすくなる
見物人が多いと消火活動がしづらいのはもちろんのこと、他の犯罪も起きやすくなります。例えば、火事場泥棒ですね。金銀諸道具を拾ってそのまま隠して持ち帰る者もいたとか。野次馬を火事場に近づけないことで、こういった犯罪も防ぎたかったのでしょう。
また、火事場見物の中に放火の犯人がいることもあります。実際に、目黒行人坂の大円寺から出火した「明和の大火」は、窃盗目的の放火が原因でした。