古今東西、怨みをもって亡くなった方が「化けて出る」のはよくある話。
さて、今回紹介するのは聖武天皇の第一皇女・井上内親王(いのえないしんのう)。幼くして神に仕えた少女は、やがて朝廷での権力争いに巻き込まれていくのですが、その数奇な人生をたどってみましょう。
※以下、本来であれば周囲の状況によって呼び名も変わっていくのですが、ここでは「井上内親王」で統一します。
幼くして斎王に、そして京都に還るまで
井上内親王は養老元717年、時の皇太子殿下・首親王(おびとのしんのう。後の聖武天皇)の長女として生まれたとされています。
そんな井上内親王が5歳となった養老五721年の9月11日、彼女は斎王に卜定(ぼくじょう。占いの結果として決定)されます。
斎王(さいおう・いつきのきみ)とは伊勢の神宮にお祀りされている皇祖神(皇室の御先祖である神様)・天照大神にお仕えする聖職者で、未婚の皇族女性から選ばれました。
それから23年間にわたって厳しい精進潔斎(しょうじんけっさい。ケガレを受けない清らかな生活)を続け、弟の安積親王(あさかしんのう)が薨去された天平十六744年1月13日、斎王の任を解かれて京都に還ってきたのでした。
白壁王との結婚・そしてニ人の子供たち
さて、京都に還って来た井上内親王は、天平十九747年ごろに天智天皇の皇孫に当たる白壁王(しらかべおう)と結婚。すでにアラサーですから、当時としては相当な晩婚です。
その後、天平勝宝六756年に38歳で長女・酒人内親王(さかひとないしんのう)を、天平宝字五761年に45歳で長男・他戸親王(おさべしんのう)を産んだとされていますが、この異例な高齢出産に、今でも諸説が唱えられています。
ところで、当時は朝廷の内部で権力抗争が激化しており、多くの皇位継承候補が次々と殺されていく中、白壁王は酒におぼれて無能なフリをしていたことで魔手から逃れたと言われています。
その一方で、称徳天皇の治世下で大納言(右大臣・左大臣につぐ第3位の権力者)として政界をリードしていたとも言われますから、おそらく有能でありながら野心を示さないことで、権力抗争からうまく距離をとっていたものと考えられます。