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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第24話
◾文政八年 初夏
まっさらな紙の上を、漆黒の筆先が滑る。
緩やかな曲線、かと思えば突然、かっと威勢のいい角が現れたりする。
筆遣いには迷いも曇りもない。
男の腕は躍動する。
心のまま、紙の中に墨染の生命を注ぎ込む。
最後に黒目を描き入れると、一個の生命が誕生した。ぺろりと舌舐めずりしたところで集中が途切れて、
「それにしても・・・」、
はた、と男は我に帰った。
「仕事が来ねえ」。
浮世絵師・歌川国芳に、今年も冴えない夏が来た。
親友の佐吉が見ている傍で、国芳はついに筆を放り出し、袖枕でゴロリと寝転んだ。いつもその場所に寝そべるものだから、もうそろそろその場所に国芳の人型の跡が付いてもおかしくないと佐吉は思っている。
国芳のそんな態度とは裏腹に、机上に広げたままの素描帳には描き散らされた禍々しい鰐やら巨大な鯉の化け物やらが、今にも襲いかかりそうに躍動している。
佐吉はそれを覗き込んでニコリと笑った。
「芳さん、最近また、絵が変わったな」
「そうか?」
「前より、随分鮮やかになった」
「ただの墨描きだぜ」
と国芳は怖い顔で毒づく。彼なりの照れ隠しである。
「だから、線画が鮮やかになった。力強いっていうか、迷いがないっていうか」
「そうかよ」
「それにさ、なんだか」、
佐吉は腕組みして言った。
「生きてるみてえだ」。
「あ?」
「前は上手くてもムッと呼吸を詰めてる絵ばかりだったが、最近の芳さんの絵は、人も生き物も花も波も、皆息衝いてやがる。今に紙から飛び出てどっかに行っちまいそうだ」
「ほんに、一銭にもならずに描いたそばから全員どっか行っちまいやがらア」
国芳は佐吉の誉め言葉をすぐに茶化した。
「ねえ、真面目に褒めてるんだぜ。芳さんの腕アどんどん進化してるんだから、きっと今に売れっ子になるさ。ホラ、描くのに飽きたんなら今のうちからこの紙に花押を書くか、手形でも押してよ。有名になったら一気に売り出すからさ」
現金なこの青年はどこからか大量の半紙を出してきて、寝転がる国芳の顔の前にどさりと置いた。
「こんべらばアが、よしゃがれ手形なんざア。相撲取りじゃあるめえし」
ウウンと足を延ばした時、ガタッと足が机にぶつかり、机に積み上げてあった本やら帳面やらがバサバサと国芳の上に崩れ落ちてきた。
「痛ててて!」
国芳は突然足に降りかかった痛みに咆哮し飛び起きた。降ってきた本どもは、少しずつ貯めた金で方々探し回ってようやく手に入れた蘭書や唐本や絵手本である。止まることのない国芳の学びの姿勢には佐吉も舌を巻いていた。まず「解体新書」という蘭方の医学書を手に入れ、人体の構造を骨格から改めて学びなおし始めた。
人物描写の向上のためである。その他にも銅板画の蘭書、唐本、葛飾北斎の絵手本など、少しでも金が入るたびに次々に手に入れ、前年の十五夜の月見に描いた「雪月花」の「月」よりもなお面白い絵を生み出すために、ひたすら暗中模索している。