気づけば終わっていた「関ヶ原」
「天下分け目の決戦」として知られる関ヶ原の戦い。
徳川家康と石田三成が多くの大名を動員、東西両軍に分かれて激闘を繰り広げましたが、その中でも異彩を放った島津軍(大将:島津義弘)のお話。
島津軍は三成の率いる西軍に与しながら、総大将である三成の出撃要請を拒否、その場に居座り続けました。かくして気づけば戦も終わっており、味方である西軍はみーんな退散。
そして……家康の率いる東軍十数万に、ほぼ完全包囲されてしまいました。つまり「わざわざ関ヶ原まで来たのに、何もしないで気づいたら絶体絶命のピンチ!」状態です。
一体、何しに来たんでしょうね(汗)
進めば地獄、退くも地獄……島津義弘の下した決断
さて、島津軍の兵力はおよそ千五百、対する東軍は徳川家康はじめ諸大名の軍勢が大集結、トータル十万オーバー。その差は実に約66倍(!)普通に戦って勝てる訳がありませんが、と言って背後の山に逃げ込んだところで土地勘もなく、迷った挙句に落ち武者狩りで殺されるのがオチ。
どっちにしても助からない。
ならば。
「泣くよかひっとべ!死ぬ時ゃ笑って前のめり!」
……とは多分言っていませんが、島津義弘は、敵陣のど真ん中を指しながら、全軍に「退却」を命じました。
※泣くよかひっとべ、とは「案ずるより産むがやすし」の薩摩バージョン(慣用句)です。