隠れキリシタン世界文化遺産に認定。日本のキリシタンと言えば「細川ガラシャ」時代に翻弄された明智光秀の娘

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隠れキリシタン関連遺産、世界文化遺産に

厳しいキリスト教取り締まりが行われた時代を生き延びた、長崎と天草地方の「隠れキリシタン関連遺産」が、2018年7月に世界文化遺産に登録されました。「日本のキリシタン」と言えば、この地方が今後も注目されていくことは間違いないでしょう。

しかし日本のキリシタンと言えば、忘れてはならない人が1人います。その人は、明智光秀の娘としてこの世に誕生した、後の細川ガラシャ夫人です。

「本能寺の変」を機に「逆臣の娘」に!明智光秀の娘・玉(後のガラシャ)

細川ガラシャは、元禄6(1563)年に明智玉(たま。玉子/珠/珠子とも)として、明智光秀の3女(4女との説もあり)として誕生しました。この時代の日本史を学校で学んだ読者の皆さんなら、「明智光秀の娘」と聞いただけで、彼女のその後の数奇な運命を想像せずにはいられないのではないでしょうか。

果たしてその通り、彼女の父の光秀が本能寺で主君・織田信長を討ったことで、彼女の運命は大きく変わります。

15歳で細川藤孝の嫡男・忠興と結婚した玉でしたが、この事件を機に「逆臣の娘」となり、それにより狙われるのを防ぐため、夫によって京都の味野(現在の京丹後市弥栄町)に幽閉されることとなります。
天正12(1584)年3月に細川家に戻されましたが、近親者とも自由に伝言のやり取りすらできない厳しい監視下に置かれました。

そんな玉がキリスト教に興味を持ったきっかけは、忠興が後にキリスト教の福者に列せられるユスト高山右近から聞いたキリスト教の話を、彼女に聞かせたことでした。密かに教会へ足を運んだ玉でしたが、その場で洗礼を受ける事はできず、細川家の迎えの者に連れ戻されます。

しかし秀吉によりバテレン追放令が出された事実を知ると、彼女は大阪に滞在中の神父の計らいで、先に洗礼を受けていた侍女から屋敷内で洗礼を受けたのでした。
このときに受けた洗礼名が「ガラシャ」。現代なら「グラッツィア」と表記されます。

3ページ目 ガラシャのその後の苦難と死

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