まずこちらの写真をご覧ください。
これは明治時代後期の芸妓さんの日本髪を紹介した古写真です。この古写真の中に「富田屋 八千代」と書かれたものがいくつもありますよね。この写真に写っているのが今回紹介する、大阪の名妓として活躍していた富田屋の八千代です。
大阪の芸妓といえば富田屋 八千代
八千代は本名・遠藤美紀子。13歳から芸妓の道に入り、明治時代〜大正時代にかけて大阪で活躍。その名は全国的に知られた存在で、日本三名妓の一人とも評された程でした。(日本三名妓:東京の万竜、京都の千賀勇、大阪の八千代)
その八千代の当時の写真がこちら。
とっても美しいですよね。当時もその容姿が人気で、多くのブロマイドや絵はがきが作られました。当時、現在で言うところのミスコンのようなものも開催されており、芸妓さんがエントリーするミスコンなどもありました。ですので、当時は芸妓さんがアイドルや女優のような役割も担っていたのかもしれませんね。
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八千代はその美貌もさることながら、人柄の良さにおいても秀でたものを持ち合わせており、多くの著名人が八千代の素晴らしさに惚れ込んでいました。
画家・岡本太郎の父で漫画家の岡本一平も八千代を高く評価した一人で、こんな言葉を残しています「二重にくびれた二重瞼は微紅を帯び、あたかも春花の柔らかく、また温かく、睫毛に添うて香りかかり、乱れかかり・・・描くあたわず。・・」
松下電気の創業者・松下幸之助は、会社を創業する前の職場で富田屋の停電の修理を依頼された際に八千代に「お気の毒」と声をかけられ、茶菓子と祝儀袋を差し出されたとき、顔を真っ赤にしてお礼の言葉も言えなかった…というエピソードを語っています。