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『豊臣兄弟!』の裏で大出世!牢人から「2万5千石の城主」へ化けた秀長家臣・本多利久の生き様

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秀長死後も活躍

天正19年(1591年)に秀長が世を去ると、その婿養子であった豊臣秀保(ひでやす。秀長の甥で姉ともの三男)に引き続き仕えました。

この頃に利久は嫡男の本多俊政に対して、所領2万5千石のうち1万石を分け与えたそうです。

文禄元年(1582年)に始まった文禄の役(第一次朝鮮征伐)では俊政が壱岐勝本城に在番して海上輸送を担当し、利久は渡海せず国内統治に当たったものと見られます。

やがて秀保が文禄4年(1595年)に世を去って大和大納言家が断絶すると、所領はそのまま秀吉の直臣として返り咲きました。

慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると、その遺児である豊臣秀頼(ひでより。茶々との間に生まれた二番目の子)に仕えます。

しかし豊臣政権が分裂の兆しを見せると、本多父子は徳川家康(松下洸平)に仕えるようになり、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では家康に与して戦ったため、本領を安堵されました。

そして慶長8年(1603年)1月13日に世を去ったということです。

終わりに

【本多利久・略系図】

……水野利元-本多利久(藩祖)-本多俊政(初代)-本多政武(2代。無嗣改易)-男児(夭折)

今回は秀長に仕えて活躍した本多利久・本多俊政父子を紹介してきました。彼らが大和高取藩の藩祖および初代藩主となるのですが、その子である本多政武(まさたけ)の代になって、嫡男が夭折したため無嗣改易(むしかいえき。後継ぎがいないため御家断絶)となってしまいます。

大河ドラマ本編には登場しないと思いますが、こんな家臣もどこかで活躍していると思いながら視聴すると、より楽しめるかもしれませんね。

「豊臣兄弟!」では描かれない魅力的な人物に関して、下記記事でも紹介していますので、合わせてご覧ください。

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※参考文献:

  • 阿部猛ら編『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月
  • 高柳光寿ら『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年10月
 

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