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徳川四天王が見初めた武将!秀吉の大軍から深谷城を守り、家康のもとで大名へ登り詰めた秋元長朝の生涯

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家康に仕え大名となる

長朝の武勇を惜しんだ井伊直政(徳川四天王の一)が、文禄元年(1592年)に徳川家康へ長朝を推挙したのです。

深谷城での活躍は知られていたようで、家康は長朝を召し抱えて直政の配下につけました。

そして上野国碓氷郡(群馬県安中市・高崎市)に知行4千石を与えます。

やがて慶長5年(1600年)に家康が会津討伐の兵を起こすと、長朝は上杉景勝(旧主とは別家)に対する詰問の使者として派遣されました。

同年の関ヶ原合戦では対上杉の備えを担当し、戦後は景勝に降伏を勧める使者を務めます。

交渉の末に景勝を降伏させた功績により、長朝は上野国総社(群馬県前橋市)1万石へ転封されました。それだけ景勝を降伏させるのは難しかったのでしょう。

かくして大名に列した長朝は領内の治水事業に着手し、慶長9年(1604年)には利根川から水を引き込む大工事を成功させます。

安定した水源の確保によって農地が肥沃となり、収量の倍増した領民たちの暮らしは豊かなものとなりました。

まさに文武両道の名将・名君だったと言えるでしょう。

エピローグ

その後も長朝は徳川家に忠義を尽くし、慶長19・20年(1614・1615年)に起きた大坂の陣にも従軍して武功を立てました。

元和8年(1622年)になると嫡男の秋元泰朝(やすとも)に家督を譲って隠居し、寛永5年(1628年)8月29日に83歳で世を去ったということです。

戒名は江月院殿巨岳元誉大居士(こうげついんでん こがくげんよだいこじ)、墓所は領内の光巌寺(群馬県前橋市)にあり、今も人々を見守っていることでしょう。

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※参考文献:

  • 萩原進『郷土歴史人物事典群馬』第一法規出版、1978年10月
  • 上毛新聞社 編『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月
 

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