権威低下を招いた「改革」
幕末期の、江戸幕府の衰退がどの時点から始まったと言えるかは諸説ありますが、有力な説のひとつが「天保の改革」がその原因だったとするものです。今回はこれについて解説します。
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天保の飢饉やモリソン号打ち払い事件、頻発する百姓一揆、蛮社の獄など内外の諸問題が起きていた時期、これに対応するため首席老中に任命されたのが水野忠邦です。
彼が実践した改革が天保の改革で、これについては昔から教科書にも掲載されているので覚えている人も多いでしょう。
ただ、そもそもこの天保の改革はあくまでも幕府権力の再編強化であって、国内の諸問題を直接解決するようなものではありませんでした。あくまでも「享保」「寛政」の改革を手本にした政策だったのです。
彼は大名・大奥も含めて倹約令を出し、庶民の風俗を厳しく取り締まります。飢饉で荒廃した農村を復興するため農民の出稼ぎも禁じました。
しかし、生活と風俗への厳しい統制と、一向に回復しない不景気とが重なり、人々の改革に対する不満は高まっていきました。
そしてとどめの一撃となったのが、諸藩に領地替えを命じて実現できなかったという出来事です。
当時は、川越藩が、外国からの圧力に対応するために相模湾の防備強化を担当していました。
この川越藩の財政負担を軽減しようと、幕府は川越・庄内・長岡の3藩の領地を相互に入れ替えることを命じます。しかし激しい反対にあって実現できませんでした。このことが、幕府の権威を大いに損ねる結果になったのです。
