明治政府が犯した外交の失敗・アメリカの罠――岩倉使節団の裏で進んでいた“不平等条約の完成”【後編】

歴史 好き太郎

委任状がない

前編では、岩倉使節団が不平等条約の延長のために渡米しますが、森有礼によって条約の「延長」ではなく「改正」の本交渉開始を持ちかけられたところまで説明しました。

岩倉使節団の裏で進んでいた“不平等条約の完成”――明治政府が犯した外交の失敗・アメリカの罠【前編】

「不平等条約」の完成幕末期に江戸幕府が最初に結んだ条約、いわゆる安政の五ヶ国条約は、1858年にハリスと調印した日米修好通商条約と、ほか四ヶ国とそれぞれ締結したものを指します。関連記事:[…

サンフランシスコに到着して以来、使節団一行は各地で大歓迎されます。

歓迎ムードの中で伊藤博文は森有礼と駐日公使デロングの提案に乗りました。もともと使節団の目的は条約改正の延期にありましたが、それが条約改正の交渉に変更されたのはこの時です。

しかしいざ条約交渉を開始しようとすると、国務長官フィッシュは全権委任状を要求します。条約改正交渉の唯一の代表がこの使節団である、ということを証明しろというわけです。

もともと使節団は延期の交渉に来ているだけで、条約を結び直しに来ているわけではありません。アメリカが全権委任状を持たない相手とは交渉しないというのは当然といえば当然です。

そこで大久保利通と伊藤博文は日本に委任状を取りに帰ることになります。これには往復でざっと四ヶ月かかります。完全な二度手間でした。

2ページ目 木戸孝允の心配

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