【べらぼう】喜多川歌麿(染谷将太)の生涯——浮世絵の権威から蔦重との別れ、画力・心身ともに衰弱へ…

◆喜多川歌麿/染谷将太
きたがわ・うたまろ/そめたに・しょうた

美人画で江戸に旋風を巻き起こした天才絵師

幼いころ、絵師・鳥山石燕のもとで絵を学び、その後、蔦重と出会う。蔦重が洒落本、黄表紙、狂歌本と次々と新たな出版物を手がけていく中で、挿絵の仕事などを任され、自らの画力を磨いていく。

やがて寛政の改革で時代が変わると、蔦重と浮世絵の美人画を仕掛け、その才能を一気に開花させる。美人画は江戸で大評判となり、人気絵師の地位を確立していく。

※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第1回放送「ありがた山の寒がらす」から、ずっと登場してきた歌麿(唐丸⇒捨吉⇒歌麿)。

物語も終盤を迎えて、盟友とも言える蔦重(横浜流星)と対立する場面も描かれていますが、今後どうなってしまうのでしょうか。

今回はそんな喜多川歌麿の生涯をおさらいしていきたいと思います。

歌麿の生い立ち

喜多川歌麿の生年については諸説あり、通説では宝暦3年(1753年)と言われます。

出身地やついては江戸生まれや河越生まれ、または上方で生まれたなど諸説あるものの、これも詳しくわかっていません。

幼名は北川市太郎(いちたろう)、元服して名を北川勇助信美(ゆうすけのぶよし。勇記とも)と改めました。

画号ははじめ石要(せきよう)、次いで豊章(とよあきら/ほうしょう)。天明初期(1781年〜)から喜多川歌麿(歌麻呂、哥麿)と号するようになります。

歌麿の読みははじめ「うたまる」だったのが、死後しばらくして「うたまろ」に変わっていきました。

他にも木燕(ぼくえん)や燕岱斎(えんたいさい)、筆綾丸(ふでの あやまる。筆の誤る)・紫屋(ゆかりや)等の号を使い分けています。

2ページ目 蔦重との出会い〜当代一の浮世絵師へ

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