本業のかたわらに筆をとり、江戸の文芸文化を花開かせた戯作者たち。
その本業は様々であり、職業経験を創作に活かした者もいたことでしょう。
今回はそんな戯作者の一人・感和亭鬼武(かんわてい おにたけ)を紹介したいと思います。
果たして彼は何者なのでしょうか。
武士から戯作者へ
感和亭鬼武は宝暦10年(1760年)に誕生しました。
本名は前野曼七(まえの まんしち。又は前野曼助)、元は一橋家(御三卿の一)に仕える勘定方だったと言います。
また神道無念流剣術を使う文武両道の士でしたが、訳あって隠居。武士を辞めてしまいました。
隠居の理由が何であったのかは、よく分かっていません。隠居後は飯田町(千代田区)そして浅草へ移り住み、絵画と戯作を手がけるようになります。
絵画は谷文晁(たに ぶんちょう)、そして戯作は山東京伝(さんとう きょうでん)に学び、十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)らと交流しました。
文化3年(1806年)には代表作となる『報仇奇談自来也説話(かたきうち きだんじらいやものがたり)』を出版します。
義賊・自来也とは
本作は自来也(じらいや)の二つ名で呼ばれる尾形周馬寛行(おがた しゅうまひろゆき)が、勇侶吉郎(いさみ ともきちろう)の仇討ちに助太刀する物語です。
自来也は仙人から学んだ蝦蟇の妖術を使って富める者から盗み、貧しい者たちへ分け与える義賊でした。
彼は盗みに入った屋敷の壁に「自来也(みずから来るなり)」と大書したことから、自来也の名で呼ばれています。
果たして仇敵・鹿野苑軍太夫(ろくやおん ぐんだゆう)との勝負はどうなるのでしょうか。
ちなみに自来也の二つ名を壁に大書するというモチーフは、沈俶『諧史』に登場する盗賊・我来也(がらいや)を元にしたと言います。
本作は蹄斎北馬(ていさい ほくば)の挿絵と相まって大ヒット。翌文化4年(1807年)には大坂で歌舞伎上演されるほどでした。
