人(1)の世(4)虚(67)しき「応仁の乱」……応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)まで、約11年にわたって東軍と西軍が死闘を繰り広げ、京都が焼け野原となりました。
日本史上でも屈指の惨禍をもたらした大乱の原因は、日野富子(ひの とみこ)が室町将軍家の後継者争いを激化させたから……というのが通説のようです。
しかし、応仁の乱を起こした真犯人は別にいました。にもかかわらず、なぜ富子が悪役とされてしまったのでしょうか。今回は、その理由について紹介したいと思います。
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通説をおさらい
まずは応仁の乱について、通説を確認しておきましょう。
時の室町将軍・足利義政(あしかが よしまさ。第8代)は永らく男児を授からず、出家していた弟の足利義視(よしみ)を後継者に指名します。
義視は「後でお子さんが生まれたらトラブルになるから、嫌ですよ」と断りますが、義政は「もし生まれても、お前を後継者から外さないから」と懇願。義視はしぶしぶ後継者候補となりました。
しかし義視の不安が的中し、義政と富子の間に念願の嫡男・足利義尚(よしひさ)が誕生します。
こうなると義尚を将軍としたいのが親心。そこで富子は義政に「義視を排除しろ」と圧力をかけました。
義政は「あの〜、誠に申し上げにくいのですが……」と義視に将軍候補を辞退するようお願いするのですが、義視は「そら見たことか。今さら嫌だ!」と譲りません。
かくして富子と義視が対立し、義政は二人の板挟みに。やがて富子には山名宗全(やまな そうぜん)、義視には細川勝元(ほそかわ かつもと)が後ろ盾となり、東西に分かれて死闘を繰り広げるのでした……と言ったところです。
【東軍の主な顔ぶれ】
- 足利義視
- 細川勝元
- 斯波義敏(しば よしとし)
- 畠山政長(はたけやま まさなが)
【西軍の主な顔ぶれ】
- 日野富子(&足利義政&足利義尚)
- 山名宗全
- 斯波義廉(よしかど)
- 畠山義就(よしひろ/よしなり)
斯波義敏と斯波義廉、畠山政長と畠山義就はそれぞれ義理の兄弟であり、それぞれ家督を巡って対立していました。
将軍家と有力大名家でそれぞれ家督を争っていたのですね。
