日本古代史における最大の謎の一つが、邪馬台国がどこに存在していたのかという問題です。しかし、この所在地をめぐる論争は江戸時代から続いていますが、いまだ確定には至っていません。
しかし近年、奈良県桜井市北部の巨大遺跡である纏向(まきむく)遺跡の発掘成果により、考古学の立場からは「邪馬台国の中心地は纏向である」とする見解が有力となりつつあります。
そこで本稿では邪馬台国畿内(纏向)説として、初代女王卑弥呼と二代女王台与、および邪馬台国が畿内であるならば必然的に繋がるヤマト政権の始祖王・崇神天皇(大王)の古墳を探っていきたいと思います。
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卑弥呼の没年齢は90歳?驚くべき長寿
邪馬台国の初代女王・卑弥呼が死去したのは、西暦248年頃とされています。
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼が女王に即位した際には「すでに年、長大」とあり、このときすでに成人に達していたことがわかります。
当時は10代前半でも成人と見なされたため、即位時点で卑弥呼は少なくとも十代ではなかったと考えられます。
では、248年に亡くなった時の年齢はいくつだったのでしょうか。その答えを導く手がかりとなるのが、卑弥呼の在位期間です。そして、その一つのヒントが『三国史記』新羅本紀に見えます。
そこには「西暦173年、卑弥呼が新羅に使者を送った」との記事があり、仮にそのとき彼女が15歳前後であったとすれば、没年は90歳前後となる計算です。
弥生時代の平均寿命は20代半ばとされますので、卑弥呼は非常に長寿であった可能性が高いといえるでしょう。もし将来、卑弥呼の墳墓と考えられる古墳から人骨が発見されることがあれば、その年齢推定は卑弥呼研究における重要なポイントとなるはずです。
纏向遺跡は初期ヤマト政権の母体だった
邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纏向遺跡には、西暦200~300年頃に築造されたと考えられる6基の古墳「纏向石塚古墳」「纏向矢塚古墳」「ホケノ山古墳」「纏向勝山古墳」「東田大塚(ひがいだおおつか)古墳」「箸墓(はしはか)古墳」が存在します。
これらの築造年代は、まさに邪馬台国が栄えた時代と重なり、同時にヤマト政権誕生の時期とも一致します。したがって、これらの古墳は初期ヤマト政権の母体となった邪馬台国連合の首長層の王墓であった可能性が極めて高く、その中のいずれかが卑弥呼の墓である可能性も否定できません。
とりわけ注目されるのが、纏向古墳群の盟主墓と目される「箸墓古墳」です。その被葬者については、戦前に古代史家・考古学者の笠井新也氏が卑弥呼の墓であるとの説を提唱していました。この主張は当時、突飛なものとして扱われましたが、近年は邪馬台国畿内説の高まりとともに「箸墓」から新たな発見が相次ぎ、再び議論の的となっています。
そして現在では、著名な考古学者の白石太一郎氏をはじめとする研究者が、「箸墓古墳」の被葬者は卑弥呼である可能性が高いとする見解を示しています。
果たして「箸墓古墳」の主は卑弥呼なのか、それとも卑弥呼の後を継いだ二代女王・台与(とよ)なのか、あるいはヤマト政権の最初の王なのか――ここから検証してまいりましょう。
