一揆に武器なし
江戸時代の農民は、豊臣秀吉の「刀狩り」以降、完全に武装解除されたわけではありません。あくまでも、刀狩りでターゲットにされたのは「刀」でした。
刀狩りは、農民から刀を取り上げることで武士と農民をしっかり区別し、身分制度を確立するのが目的でした。
つまり、「刀狩り」以降の農民もまた武器を所有していましたし、それが当たり前と考えられていたのです。
しかしここで疑問なのは、いわゆる百姓一揆で武器が使われた形跡がほとんどないことです。なぜ彼らは武器を持っていたにもかかわらず、それを持ち出さなかったのでしょうか。
関連記事:実は江戸時代の「百姓一揆」は作法やルールが決まっていた!意外な“一揆マナー”の実態
先述のとおり、農村でも刀や鉄砲を所有している家は少なくありませんでした。
実際、強訴の際に鉄砲が持ち出されることもあったようです。しかしそれは武器として使用されたわけではなく、合図をするための鳴り物として用いられました。
つまり、百姓は武器となり得る物を所有していながら、意図的に用いなかったのです。
つまり彼らは、領主権力に武力で対抗する気はなかったことになります。一方で幕府や藩も一揆をいきなり武力で弾圧することはなく、まずは役人が訴状を受け取って、説論して解散させるケースが多かったようです。
仁政イデオロギー
なぜ百姓は暴力を用いなかったのでしょうか。このことを日本近世史の研究者は「仁政イデオロギー」という用語で説明してきました。
仁政イデオロギーとは、領主には百姓の生業維持(「百姓成立」といいます)を保障する責務があり、そうした「仁政」(情け深い政治)を施す領主に対して、百姓は年貢をきちんと納めるべきであるという認識を指します。
この認識を領主権力と百姓とが共有しており、江戸時代の政治文化の根幹をなしていたとされるのです。
ひと昔前のイデオロギー概念に照らし合わせたイメージなら、それは仁君であることを名目に幕藩領主の支配を正当化(正統化)するイデオロギーだったと言えるかも知れません。
しかし反面では、百姓側がそれを逆手にとって、領主側に仁政を訴え出る正当性にもなりました。
自らの生活が成り立たないほど年貢が過重であった場合、百姓は訴願を行い、領主に訴え出て、年貢の軽減や米などのお救いを要求したのです。
このことをふまえると、一揆であえて武器が使われなかった意味も理解できます。
一揆の際、百姓は農作業で着る蓑笠をまとい、鍬・鋤などの農具を持っていました。あくまでも武器は携えていなかったのです。
その理由は、それらが百姓身分を象徴するアイテムだったからです。刀や鉄砲で武装しないことが、自らが「武士身分ではなく百姓である」というアピールになり、領主に仁政を求める正当性を示す手段になったのでしょう。
暴力をふるわないことこそが、領主からの「お救い」を引き出すためには逆に必要でした。
一方の領主側にとっても、百姓一揆を即座に暴力的に鎮圧することは、仁君としてふさわしい行動ではありません。
「武器を使わない」「農民らしい出で立ちを心がける」という百姓一揆の作法は、身分制を基盤とする近世の支配関係と、それを支える仁政イデオロギーに基づいて形成されていたのです。
