【大河べらぼう】狂歌師・大田南畝も合格。寛政の改革で松平定信が仕掛けた『学問吟味』とはどんな試験?

松平定信が主導した寛政の改革では、旗本や御家人に対する文武振興策が打ち出されました。

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今回は昌平坂学問所で実施された学問吟味(がくもんぎんみ)を紹介。果たして何が行われたのでしょうか。

幕末まで断続的に実施

学問吟味とは、人材発掘を目的として、寛政4年(1792年)から導入された試験です。

試験は初場(しょじょう。予備試験)と本試(ほんし。本試験)の2段階で実施され、初場の合格者が本試に進みました。

本試の及第者は上から甲科・乙科・丙科で評価され、甲科と乙科には褒状(表彰状)と褒美(金品)が、丙科には褒状が贈られます。

及第すれば必ず官吏に登用される保証こそなかったものの、時代が下るにつれて及第者の多くが活躍するようになりました。

ちなみに毎年実施された訳ではなく、寛政の改革期間に実施されたのは第1回のみ。第2回は定信失脚後の寛政6年(1794年)となります。

以降は断続的に実施され、慶応4年(1868年。明治元年)までに合計19回が実施されました。

学問吟味の試験内容は?

そんな学問吟味では、朱子学(儒教の一学派。12世紀に朱熹が提唱)の学識が試されたそうです。

初場では四書五経(ししょごきょう)や小学(しょうがく。朱熹による初学テキスト)の素養が問われました。

ちなみに四書五経とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四書と、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五経を総称したものです。

初場で基礎知識が証明された者については、本試に進みます。

本試では経義科・歴史科・文章科の試験が数日にわたって行われました。

経義科では漢文の解釈を講義し、歴史科では歴史上の政治や人物の論評を行います。

そして文章科では時事問題の論策(論評と対策案)が出題されました。

いずれも朱子学の思想が根底に求められ、あまりに突拍子もない評価や発想は評価されなかったようです。

学問吟味の合格率は?

第1回の学問吟味では280名が受験したものの、成績や合否は発表されませんでした。恐らく「何はなくとも、まずやってみよう」と手探りだったのでしょう。

第2回以降も記録があったりなかったりしますが、わかる範囲でまとめました。

他の回については受験者数が不明、最後の慶応4年(1868年)については成績と合否が発表されておらず、わかりません。

あくまで推測ながら、全体的には最初こそ盛り上がったものの、次第に受験者が減少。また難易度も大きく下げられていったのではないでしょうか。

それでも人材発掘・文武振興を目指した定信の精神は、幕末まで存続しました。

3ページ目 学問吟味の主な合格者は?

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