時は天明4年(1784年)3月24日。江戸城中之間において、佐野政言(さの まさこと)が脇指を抜いて若年寄の田沼意知(たぬま おきとも。意次嫡男)に斬りかかりました。
意知は初太刀で肩口を斬られ、続いて手・腹部・膝下を負傷。暗がりへ逃亡したため政言はその姿を見失います。
大目付の松平忠郷(まつだいら たださと)に取り押さえられ、目付の柳生久通(やぎゅう ひさみち)に脇指を取り上げられました。
意知は8日後の4月2日に絶命、政言は4月3日に切腹となります。それぞれ享年36歳と28歳。
この事件をきっかけに田沼政権は次第に没落していき、佐野家は改易(所領没収)となりました。
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ところで佐野政言は、史実で、なぜ田沼意知を斬ったのでしょうか。今回は犯行に及んだ動機について、紹介したいと思います。
佐野政言の主張は?
作者不詳『営中刃傷記』によると、佐野政言は犯行に臨んで口上書(いわゆる斬奸状)を持っていたそうです。
さっそく政言の主張を見てみましょう。
一、佐野家の家系図を借りたまま、督促しても返してくれなかった。
一、徳川家治の鷹狩りへお供した際、雁一羽を仕留めた手柄を取り次いでくれなかった。
一、地元の神社・佐野大明神を勝手に田沼大明神と改名した。
一、佐野家の家紋である七曜の旗を借りたまま、最速しても返してくれなかった。
一、3年間で620両もの賄賂を贈ったのに、何の役にも就かせてくれなかった。
実際には七ヶ条なのですが、似たような主張は統合しています。
確かにこれらのことが事実であれば、政言が怒るのも無理はありません。とは言え、江戸城中で若年寄である意知を斬るだけの大義名分とはなりえず、あくまで私怨に過ぎないと言えるでしょう。
ほか十七ヶ条の口上も出回ったそうですが、こちらは「世直し大明神」ブームに乗じて偽作されたものと考えられています。
