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流浪と反逆!室町幕府のラスト将軍・足利義昭の苦難と悲劇に満ちた壮絶人生【中編】
信長包囲網再び
義昭は全国の大名に書状を送り、信長包囲網の構築に奔走しました。そのなかで、様々な武将と連携を深めていくわけですが、特に上杉謙信との連携は重要でした。
謙信は信長との対立姿勢を鮮明にしており、義昭の呼びかけに応じて武田勝頼や北条氏政との講和を進める動きを見せました。また、毛利水軍は本願寺に対する兵糧補給作戦を成功させるなど、信長の支配力を揺さぶる行動を展開しました。
しかし、信長は次々と反対勢力を撃破していきます。1577年には、義昭が頼りにしていた上杉謙信が急死し、上杉家は後継争い(御館の乱)に陥りました。これにより、信長包囲網は大きな打撃を受け、義昭の影響力も低下していきました。
鞆幕府の終焉
1582年、信長は本能寺の変で明智光秀によって討たれました。この出来事は義昭にとって千載一遇の機会でしたが、義昭を支持する毛利氏はすぐに行動を起こさず、結果的に義昭が再び京都に戻る機会は失われます。代わりに、信長の後継者として台頭した羽柴秀吉が新たな政治秩序を築いていきました。
信長の死後も義昭は諦めず、秀吉に対しても自らの正統性を示しつつ関係修復を図ります。
1586年、九州を平定しようとする豊臣秀吉の命を受け、毛利輝元が先陣を切って進軍を開始しました。しかし、島津氏の軍勢は非常に精強であり、毛利軍は苦戦を強いられました。
このような状況下、足利義昭は自身の影響力を活かして、和平交渉に動きます。これは、義昭が毛利氏の意向を受けて動いたものと考えられます。毛利氏はかねてより島津氏と友好関係にあり、全面的な戦闘は避けたかったため、義昭を和平の仲介者として利用したのです。
3月、秀吉が九州へ進軍する途中、義昭の住む鞆の御所近くで義昭と対面しました。この再会は十数年ぶりのもので、秀吉はすでに従一位・関白・太政大臣という地位にあり、義昭をはるかに超える存在となっていました。しかし、義昭と秀吉は贈り物を交換し、酒を酌み交わして親交を深めました。
義昭は、島津義久への和平交渉を粘り強く続け、4月には最終的に島津氏が秀吉との講和に応じる形を取りました。この結果、島津氏の降伏が実現し、秀吉の九州平定は大きく前進したのです。
秀吉の台頭と共に義昭は秀吉との協力関係を築き、最終的に鞆を離れて京都に帰還します。これにより、義昭が築いた鞆幕府は事実上の終焉を迎えます。