花のお江戸の吉原で生まれ育った蔦屋重三郎(通称:蔦重)。親なし・金なし・風流なし……のないない尽くしでしたが、先見の明と商才に恵まれた、お江戸のトレンドセッターでした。
「前編」では、当時観光客や遊廓を訪れる客など、多くの人が集まる吉原の情報を集めたガイドブックをリニューアルした『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』を大ヒットさせた版元として、確固たる地位を築いたところまでご紹介しました。
大河ドラマ『べらぼう』親なし・金なし・風流なし…けれど野心家!江戸のメディア王・蔦屋重三郎を完全予習【前編】
その後の蔦重の活躍ぶりは止まることを知らず、まさにお江戸のメディア王としてさまざまなヒットを飛ばしていったのでした。
江戸一番の版元へと駆け上がっていく蔦重
吉原のガイドブック『細見嗚呼御江戸』を大ヒットさせた蔦重は、25歳くらいから30歳にかけて、持って生まれた先見の明・プロデュース能力を発揮し、江戸一番の版元として駆け上がっていきます。
25歳ごろに蔦重が目を付けたのが、「黄表紙」というジャンルの成人向けの洒落本・滑稽本でした。ペーパーバッグのようなもので、その名の通り黄色い紙の表紙の、10ページ程度の薄い娯楽本です。
黄表紙の第一弾は、1775年に誕生した、恋川春町(こいかわはるまち)という戯曲家が書いた『金々先生栄華夢』(きんきんせんせいえいがのゆめ)。
田舎から江戸に出てきた貧乏な青年が栄華と没落を体験するという、「一炊の夢」で知られる『枕中記』(唐の伝奇小説)のパロディーで、たくさんの挿絵が描かれている楽しげな内容は空前の大ヒットを記録しました。
その後も、浮世絵師・戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)や戯作者の朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)などの黄表紙の創作に参入、「知的でナンセンスな笑い」を好む江戸っ子たちの間で大ブームとなったのでした。
この「黄表紙」という形式を発明したのは、前編で触れた版元・鱗形屋といわれていますが、この企画や流通には蔦重が大きく関わっていたそうです。