脳を負傷しても死なず!単騎で敵中へ殴り込む勇猛すぎる戦国武将・小田部勝成の武勇伝

戦国時代、多くの武将たちが活躍し、その生き様は数百年の歳月を越えて人々を魅了しています。

今回はそんな一人である小田部勝成(おたべ/こたべ かつなり)を紹介。果たしてどんな人物だったのでしょうか。

人呼んで「乗込大学」

小田部勝成は生没年不詳、陸奥国の戦国大名(二本松城主)である二本松義継(にほんまつ よしつぐ)・二本松義綱(よしつな)の二代に仕えました。

一族は小田部城(現代の福島県本宮市糠沢字小田部)を拠点としていたことから、その地名を苗字としています。

忠功によって大学の官途名を与えられ、小田部大学とも呼ばれました。

大学(大学寮)とは式部省直轄の官僚養成機関ですが、小田部勝成が実際にそのような任務に当たった(朝廷から正式に任官された)わけではありません。あくまで主君によって許された私称(官途名)です。

騎馬戦を得意としてしばしば武勲を立て、時には単騎で敵中へ殴り込んだ豪勇ぶりから「乗込大学」という二つ名で呼ばれました。

同僚には防戦を得意として「不属(ふぞく。敵に屈せず、従わず)の弥平」と呼ばれた石川実光(いしかわ さねみつ)がおり、共に力を合わせて勝利に貢献します。

攻めの小田部(乗込大学)に守りの石川(不属の弥平)は互いを補い合い、相性がよかったのでしょうか。

そんな中、天正13年(1585年)に主君・二本松義継が伊達政宗に殺され(※)、幼くして家督を継いだ二本松義綱も政宗に攻め立てられます。

(※)義継が政宗の父・伊達輝宗を拉致したため、まとめて殺されたのです。

二本松城に立て篭もった二本松主従は、小田部大学らの奮戦もあって、伊達の猛攻を耐え抜きました。

しかし天正14年(1586年)に入ると調略によって内応者が続出。ついに二本松義綱は二本松城を明け渡し、会津の蘆名氏へ身を寄せたのでした。

これをもって、戦国大名としての二本松氏は事実上滅亡したと言えるでしょう。

2ページ目 「北の関ヶ原」でも活躍

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