桓武天皇(かんむてんのう)が行った「平安京遷都」と「蝦夷平定」。この2つの事業は、当時の日本における政治、軍事、そして民衆の暮らしに大きな影響を与えました。
しかし、その裏には天武系と天智系の対立や、仏教勢力との政治的な駆け引き、さらには民衆の負担増大という課題が潜んでいました。
一方で、平安京はしばしば「未完の都」と呼ばれることもあります。その理由は、計画段階で掲げられた理想が完全には実現されず、多くの課題を抱えたままだったからです。
今回は、桓武天皇がなぜ、平安京への遷都に踏み切ったのか、そして「未完の都」とされているのか、その理由を辿っていきたいと思います。
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平安京遷都の背景には、桓武天皇が平城京に抱いた3つの問題がありました。
1.天武系の影響が強い平城京
桓武天皇は天智系の血統を引く天皇として、天武系の影響が根強い平城京に違和感を抱いていました。このため、自身の権威を確立するためには、新たな都を必要としました。
2.仏教勢力の台頭
仏教の影響力が強まり、政治に介入する場面が増えていました。特に道鏡のような僧侶が政治に関与する問題が発生し、天皇中心の政治が脅かされていたのです。
3.水上交通の不便さ
平城京は大きな河川が近くになく、物資の運搬に適していませんでした。これに対し、淀川や琵琶湖などの水運に恵まれた山背国(後の山城国)への遷都は、経済や防衛の観点からも有利でした。
これらの課題を解消するため、784年、桓武天皇はまず長岡京への遷都を試みましたが、造営を主導した藤原種継の暗殺や早良親王の非業の死、さらには疫病や飢饉が相次いだため、長岡京はわずか10年で放棄されました。
その後794年に平安京へ遷都し、ここから平安時代が始まることになります。
桓武天皇が進めた二大事業は「平安京の造営」と「蝦夷の平定」でした。
これらは日本の国家体制を強化するための重要な取り組みでしたが、大規模な労働力を必要とするため、民衆への負担は非常に大きいものでした。
2ページ目 民衆を苦しめていた、蝦夷平定事業と平安京の造営事業