「幕末の偉人と言えば?」
この質問への回答で、必ずと言っていいほど上位に名を連ねる「吉田松陰(よしだしょういん)」。
歴史に詳しい方や大河ドラマをご覧になったことがある方はお分かりだと思いますが、前編では吉田松陰の簡単な人物像と功績、残した名言について紹介します。
吉田松陰とはどんな人物?
吉田松陰は、長州(今の山口県あたり)・萩の生まれで、幼少期からすでに頭脳の明晰さで知られていました。4歳で兵学を修め、5歳で叔父の「松下村塾」で学び、9歳で明倫館で兵学師範に。そして、11歳で藩主にその才能を認められます。その後、佐久間象山らを師事します。
吉田松陰は20歳を過ぎた頃から、破天荒ともとれるような行動を起こしていきます。
- 交流のあった宮部鼎蔵(熊本藩士)らとの東北旅行の出発日を守るため、通行手形発行を待たずに脱藩。
- 津軽海峡を渡る外国船を見学しようとして、罪に問われ士族の身分を剥奪された上に、世禄を没収。
- ペリー浦賀に日米和親条約締結で来航した際、小舟を盗み旗艦に乗り込んだが、渡航が許されなかったため奉行所に自首して投獄。
- 長州の野山獄に送られ、囚人たちに論語・孟子を講義。
こうした行動の背景には、吉田松陰が尊王思想家で、強硬な攘夷論者であったとことが語られています。
そして28歳の時、日米修好通商条約を結んだことに激怒した吉田松陰は、老中の首座である間部詮勝の暗殺を計画しましたが、結局未遂に終わります。
翌年、有名な安政の大獄で儒学者の梅田雲浜が捕縛されると、面会したことがあるなどの疑いで江戸に送還され投獄。
無罪で放免となるはずでしたが、間部詮勝暗殺計画を進んで告白。これによって死罪が確定し、伝馬町老屋敷で執行されました。こうして吉田松陰はわずか29年の生涯を閉じたのです。