新選組「近藤勇」実は全くの別名だった!泣く子も黙る新選組の局長が3回も名前を変えた理由とは?

歴史 好き太郎

最初は「近藤勇」ではなかった

近藤勇(こんどう・いさみ)といえば、言わずと知れた新選組の局長です。日本史に詳しくない人でも、彼の名前はエンタメの世界を通して知っている人も多いでしょう。

しかし実は、この近藤勇という名前は後から変名したもので、もともとの彼は別名でした。最初は「近藤」姓でもなく、「勇」とも名乗っていなかったのです。

彼は、剣の腕を上げるごとに名前を変えており、それで三回も名前を変えています。その経緯を追ってみましょう。

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盗賊に対する冷静な対応

彼は、新選組に参加する前は、天然理心流宗家の四代目として剣術の師範をしていました。

武蔵国多摩郡の宮川家に生まれた彼は、最初は宮川勝五郎(後に勝太)という名前でした。子どものころは、手をつけられないほどの餓鬼大将だったそうです。

宮川家は豊かな農家で、自宅に剣術の道場まで持っていました。父の宮川久次郎は、月に三度、天然理心流宗家の三代・近藤周助を招いては稽古を積んでいたといいます。

それで子の勝太も稽古をつけてもらっていており、早くから腕をあげていたようです。

その宮川勝太がただ者ではないと世間に思わせたのは、父の留守中の宮川家に盗賊が侵入したときのことです。

次兄の粂次郎が刀をふるって盗賊を追い払おうとすると、勝太はそれを制止しました。そしてこうささやいたのです。

「賊は忍び込んだばかりで、気が立っているから、倒すのに骨折りです。でも、立ち去るときには早く逃げようとして、心が留守になっています。その虚をつくことが、剣の秘訣です」と。

兄はこれに納得して自重し、盗賊が引き揚げようとするときに一気に斬りかかりました。そうして数人を倒したのち、さらに追撃を試みます。

が、ここでまた弟の勝太が制止しました。「窮鼠、猫を噛むのことわざがあります。無駄な後追いは危険です」と言い、これに兄もまた納得しました。非常事態にもかかわらず、ちょっと信じられないほどの冷静な判断力です。

3ページ目 後継者として養子に。名を改める

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