慶長8年(1603)に征夷大将軍となって江戸幕府を開き、太平の世を築いた天下人・徳川家康。
彼は、人質時代から多くの家臣に支えられていました。中でも、酒井忠次・榊原康政・本多忠勝・井伊直政の4人は『徳川四天王』と呼ばれ、重宝されました。
ただ、彼らがどのような活躍で家康に貢献したか、あまり詳しく知らない方もいるのではないでしょうか。
そこで今回は、徳川四天王の活躍をまとめてご紹介します。
徳川家のバランサー・酒井忠次
1人目は徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣・酒井忠次です。
忠次は家康の人質時代から支えました。この時の忠次の年齢は23歳。当時6歳だった家康とは17歳も差がありました。
そんな忠次は、機転の良さで家康の期待に応えていました。それが活かされたのは、元亀4年(1573)の正月のころ。
武田家から「松枯れて竹たぐひなき明日かな」という内容の句が送られました。意味は、「松平が衰退し、武田が栄える将来だ」というもの。
この内容に家康や家臣は怒りを見せますが、忠次はこの句の濁点を変えて、「松枯れで竹だくびなき明日かな」(松平は衰退せず、武田の首がなくなる将来だ)と詠みます。
忠次の機転に家康たちは大喜び。以後、正月には門松の竹を斜めに切り落としたゲン担ぎの門松を置くことが習慣となりました。
また、忠次は徳川家中の人間関係の調整も行っていました。
武田家滅亡後、忠次は家康が徳川四天王の井伊直政に武田家遺臣を家臣につけることを賛成します。しかし、同じく四天王の榊原康政は大反対。悪態をつきながら、激怒していました。
この様子に忠次は「主君の意見に反対するのか?今後そのような態度を取るならば、一族串刺しにするぞ」と叱りつけました。忠次の言葉に康政は、何も言えなくなったそうです。
まさに忠次は、徳川家に無くてはならない存在でした。そして家康を支え、家臣をまとめた忠次は慶長元年(1596)に病没。70歳で生涯を終えました。