夫・藤原宣孝の死後、藤原彰子に女房として出仕した紫式部。そこには様々な女房たちが活躍しており、いい人もやな人もいました。
今回は紫式部と親しくしていた藤原豊子(ほうし/とよこ)を紹介。果たして彼女はどんな女性だったのでしょうか。
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後朱雀天皇の筆頭乳母を務める
藤原豊子は生没年不詳、藤原道綱(道長異母兄)の娘として誕生しました。
母親は不明、『権記』によると実名不詳の姉妹が一人いることが分かります。
成長すると大江清通(おおえの きよみち)と結婚。大江定経(さだつね)を産みました。
※他の子供たちは母親不明。
やがて藤原彰子の女房となり、様々な女房名で呼ばれます。
- 宰相の君:宰相は参議の唐名で父・道綱の官職に由来。
- 宰相中将:道綱が右近衛中将も兼任したことに由来。
- 弁の宰相:身近に弁官を務めた人物が見当たらないため、彰子から与えられたか?
- 讃岐宰相:夫の清通が讃岐守を務めたことに由来。
- 美作三位:子の定経が務めた美作守と、自身の位階(従三位)に由来。
※女房名の由来は諸説あります。
やがて彰子が敦成親王(あつひら。のち後一条天皇)を産むとその乳母となり、その奉仕ぶりが信頼を得たのでしょう。
さらに敦良親王(あつなが。のち後朱雀天皇)が生まれた際には筆頭乳母を務めました。
寛仁3年(1018年)8月28日に敦良親王が元服した際、正四位に叙されています。
のち従三位に昇った豊子ですが、驕り高ぶるようなこともなく、女房たちから慕われました。
豊子を慕う女房の一人が紫式部であり、二人は親しく交流したと言います。
そんな二人の関係を示すエピソードが『紫式部日記』にあるので紹介しましょう。