【光る君へ】親友・紫式部のイタズラにぷんぷん!藤原彰子に仕えた『宰相の君 (藤原豊子)』とはどんな女性?

夫・藤原宣孝の死後、藤原彰子に女房として出仕した紫式部。そこには様々な女房たちが活躍しており、いい人もやな人もいました。

今回は紫式部と親しくしていた藤原豊子(ほうし/とよこ)を紹介。果たして彼女はどんな女性だったのでしょうか。

※あわせて読みたい!:

【光る君へ】紫式部と仲良しすぎて道長も手が出せず!? 親友・小少将の君とはどんな女性だった?

紫式部は夫である藤原宣孝と死別した後、藤原彰子(一条天皇中宮。藤原道長長女)の女房として出仕するようになります。そこでは色んなことがあり、色んな同僚たちと出会いますが、コミュ障な紫式部にも親友…

後朱雀天皇の筆頭乳母を務める

藤原豊子は生没年不詳、藤原道綱(道長異母兄)の娘として誕生しました。

母親は不明、『権記』によると実名不詳の姉妹が一人いることが分かります。

成長すると大江清通(おおえの きよみち)と結婚。大江定経(さだつね)を産みました。
※他の子供たちは母親不明。

やがて藤原彰子の女房となり、様々な女房名で呼ばれます。

やがて彰子が敦成親王(あつひら。のち後一条天皇)を産むとその乳母となり、その奉仕ぶりが信頼を得たのでしょう。

さらに敦良親王(あつなが。のち後朱雀天皇)が生まれた際には筆頭乳母を務めました。

寛仁3年(1018年)8月28日に敦良親王が元服した際、正四位に叙されています。

のち従三位に昇った豊子ですが、驕り高ぶるようなこともなく、女房たちから慕われました。

豊子を慕う女房の一人が紫式部であり、二人は親しく交流したと言います。

そんな二人の関係を示すエピソードが『紫式部日記』にあるので紹介しましょう。

3ページ目 紫式部のイタズラにぷんぷん!

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了