疑われている『日本書紀』の記述
天智天皇の弟と子が争った古代最大の内乱といえば、壬申の乱(じんしんのらん)です。
なぜこの争いは起きたのでしょうか?かつては、天智が子の大友皇子を即位させようと謀略を図ったからだとされてきました。
『日本書紀』の壬申紀(天武天皇の事績を記した箇所)には、次のように書かれています。少し長いですが簡単にまとめましょう。
病床についていた天智は、蘇我安麻呂を遣わして弟の大海人皇子を招き、彼に後事を託しました。
しかし、大海人は要請を固辞します。
大殿に入る前に、安麻呂から「お言葉にお気を付けください」と忠告されたことで、天智の陰謀を疑っていたからです。
代わりに天智の皇后である倭姫王の即位と大友による執政を要請し、出家して吉野に入りました。
この後に天智が亡くなると、大友が挙兵の準備を始めたため、大海人は吉野を脱出してやむなく行軍。大海人のもとには郡司や国司が集まり、朝廷を二分する争いが勃発しました。
結果、争いは大海人の勝利に終わり、新たに天武天皇が誕生した——。
通説はこうした記述に基づいていましたが、近年は評価が変わりつつあります。
天智は最初から大海人に譲位するつもりだったのであり、大友皇子が即位できるとは考えていなかった、という、歴史学者・倉本一宏の説があるのです。
こうした説が出てくるようになったのは、根拠とされてきた『日本書紀』の成立事情や解釈をめぐり、さまざまな疑義が出たからです。
3ページ目 天智の皇位継承プラン 〜 挙兵を企てたのは持統天皇?