怒り狂い、叱責する家康
徳川家康に対して、「忍耐強く狡猾な戦略で豊臣家から政権を奪った、我慢強い古狸」というイメージを持っている人は多いと思います。
確かに、関ヶ原の戦いでは西軍を工作して小早川秀秋らを寝返らせるなど、慎重な性格だったように見える徳川家康。しかし同時代の史料に目を向けると、そんなイメージとは正反対の性格が垣間見えます。
実は彼は気が短く、思い通りに事が進まないと家臣に八つ当たりするような人物だったのです。
そんなこともあって、最近は徳川家康の人物像についても見直しが進んでいます。
例えば、若い頃に武田信玄の挑発に乗って三方ヶ原で大敗したことは有名ですが、関ヶ原の戦いでも彼の気の短さを窺わせるエピソードが残っています。
戦いの最中、伝令兵が家康の乗る馬に誤って接触すると、家康は怒って伝令兵に斬りかかったのです。伝令兵は謝罪して任務に戻りましたが、怒り狂った家康は刀を振り回し続けていたといわれています。
また小早川秀秋の裏切り工作の最中も、寝返る予定だった小早川が動かないことに苛立ち、家康は家臣が諌めるまで爪を噛み続けたいう記録があります。
その後も芳しくない状況に苛立ちを隠せず、ついには苦戦する味方への憤りから、後方に控えておくべき本隊を前線へ進ませる失態まで犯しているのです。
さらに、戦場以外に目を転じても似たような話があります。薬の研究に熱心なあまり彼は医者の忠告を無視していましたし、忠告した医者を追放処分にしたこともあります。
また、着物の新調を勧めただけの女中を叱り飛ばすなど、質素倹約というよりはかなりケチな性格だったふしもあるのです。