幕末の京都における治安維持組織といえば新撰組が有名だが、幕府により設立された部隊「京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)」も治安維持に尽力した。
今回は、新選組と反目し、土佐脱藩浪士・坂本龍馬を捕殺したとされる京都見廻組の実態をご紹介する。
京都見廻組誕生と意義
幕末。京都見廻組は反徳川幕府勢力が跋扈する京都において、周辺地域の治安維持を名目に組織された。当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保を最高とし、配下に京都見廻役2名を設置。実質的な京都見廻組を統括する役職とした。
京都見廻組は約400名からなる御家人で組織され、細かい階級分けがなされた。当初は500名前後の部隊を想定していたが、御家人たちの集まりが悪く隊士の確保は難航したという。
見廻組と新撰組
京都周辺の治安維持を目的として活動した京都見廻組。幕府公認の組織として皇室の関連施設や官庁などの公的機関を中心とした警備が役目であった。
同時期の京都には浪人で組織された浪士隊である新撰組があった。京都見廻組同様、周辺地域の治安維持活動を目的としていた新撰組だが、主に歓楽街などの民間地域を管轄し、お互いが協力し合うことは無かったという。
両隊が協力して戦うことになるのは、旧幕府軍として参戦することになる戊辰戦争勃発後の鳥羽・伏見の戦いとなる。この頃の京都見廻組は隊名を改称し遊撃隊として参加した。