あの坂本龍馬を捕殺!?約400名で組織された幕末の治安維持部隊「京都見廻組」の実態【後編】

Japaaan編集部

幕末の京都における治安維持を担った「京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)」。江戸幕府存続のために活動した見廻組だが、幕末から明治維新という時代の流れに呑まれて崩壊してゆく。

今回は【前編】に続き、京都見廻組の実情と最後をご紹介する。

前回の記事はこちら

あの坂本龍馬を捕殺!?約400名で組織された幕末の治安維持部隊「京都見廻組」の実態【前編】

幕末の京都における治安維持組織といえば新撰組が有名だが、幕府により設立された部隊「京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)」も治安維持に尽力した。今回は、新選組と反目し、土佐脱藩浪士・坂本龍馬を捕…

坂本龍馬の捕殺

土佐脱藩浪士である坂本龍馬暗殺(近江屋事件)を巡っては様々な解釈がなされているが、京都見廻組による捕殺説がいわれている。

見廻組として京都の治安維持に尽力した今井信郎は、戊辰戦争後に身柄を拘束され、坂本龍馬殺害に関する詳細を証言している。

今井によれば、今井自身と佐々木只三郎を含む7名が近江屋へ向かい、実行犯は佐々木を筆頭に4名であったという。坂本と同席していた中岡慎太郎も殺害された。

坂本の殺害動機は1866年に起きた寺田屋事件が原因であるという。薩摩藩士を騙る坂本を伏見奉行数十人が捕縛に向かったこの事件で、坂本は捕り方2名を殺害し数名を負傷させ逃走しており、この事が後の近江屋事件の動機であった。

今井は京都見廻組による坂本暗殺は正式な公務執行であり、暗殺ではなく捕殺であると主張している。

京都見廻組の「今井信郎(いまいのぶお)」

3ページ目 組織の崩壊 〜 隊士たちのその後

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