戦国時代には三浦按針(本名:ウィリアム・アダムズ)と呼ばれたイングランド人の武士がいたことは、知っている方もいるかと思います。
しかし、按針の他に西洋の武士がいたことはご存知だったでしょうか。
その人物は山科勝成(やましな-かつなり)、イタリア出身の武士とされる西洋人です。今回は山科勝成の日本での活躍や実在性についてご紹介します。
張良や諸葛亮を超えた才能の持ち主
勝成は『御祐筆日記抄略』によると、天正5年(1577)に紹介状を持参し、蒲生氏郷に仕官を要求しました。
この時、勝成はロルテスと名乗っており、持ってきた紹介状には「軍人でありながら、地理や天文分野の知識が豊富で、かの張良や諸葛亮を上回る才能を持っている」との記載がありました。
こんな才知あふれる人物を放っておくわけにはいかず、氏郷は家中で議論した結果、仕官を許します。
その際に、名前をロルテスから「山科羅久呂左衛門(ろくろざえもん)勝成」に改めています。また、氏郷の元で火縄銃や大砲といった銃器の製作に従事しました。
大砲を用いた活躍見せる
勝成は武器の製作だけでなく戦場でも活躍し、天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いの前哨戦だった峯城攻略戦で5番目に首級を挙げました。
加えて、同戦いにおける加賀野井城攻略戦では大砲を使って落城に追い込み、逃亡する城兵の首級を挙げる活躍を見せています。
そして、この戦いの7日後には氏郷の家臣と共に武器を買うためにローマへ渡りました。勝成は2年半の時を経て、30丁の火縄銃を携えて帰国。これに満足した氏郷は勝成に500石を加増しました。
再び氏郷の元に戻った勝成は、天正14年(1586)の九州征伐に参加し、豊前国の巌石城攻略戦で大砲を用いて落城に追い込んでいます。
また、天正18年(1590)の小田原征伐にも参加し、鉄棍棒を使って小川新左衛門を討ち取る活躍をしました。