写経…それは精神統一のひととき。現代ではそんなイメージを抱く人も多いと思います。しかし時が違えば、写経はとんでもない苦行という一面もあったのです…!
仏教が盛んになった奈良時代、貴重な経典を書き写すなど学術的な目的ではなく、その物量をもって呪いをとこうとしたり、国家安寧を願ったりする目的で写経が行われるようになりました。
日本において写経の始まりは、壬申の乱の後に天武天皇が即位された後に行われた「川原寺の一切経」だそうです。
その後、官立の写経所が東大寺などに設置され、専門の写経生たちによって、国家事業としての写経が行われるようになりました。
長時間座ったまま、ひたすら文字を書く写経。現代とは違い室内は曇天や雨天のときは暗く、蝋燭の明かりでは手元がしっかりと見えないため、身を屈めるようにして書いていたことでしょう。
考えてみるといわば苦行です。
体調不良を起こした僧も多かったようで、休暇願を出した記録で一番古いのは天平三年。24歳の僧の「眼精瞑濛により」という理由だったそうです。
「目を酷使しすぎて疲れ果て、よく見えません」という、眼精疲労どころではない消耗具合です。
また彼らを苦しめたのは腰痛、痔、下痢、労咳、粗末な食事による脚気、頭痛などなど。
天皇など高貴な方が病気になったらさあ大変。祈祷のため、一日中夜を徹して行われることもありました。しかもそれをしたところで、快癒するとは限らないのです。
「おんどりゃ、お前たちの祈りが足らんのじゃ。」鶴の一声で、追加の写経がまた増えます。