「えぇい、お前なんかに娘はやらんぞ!」
「お義父さん、どうか私たちの結婚を認めて下さい!」
「黙れ、お前なんかにお義父さんと呼ばれる筋合いはないわい!」
……とか何とか。昔から、娘の嫁入りは家運を左右しかねない重大事項。大切な娘をおいそれと送り出す訳にはいきません。
そんな父親の心情は今も昔も変わらないようで、かつて徳川四天王の筆頭と讃えられた酒井忠次も、そんな父親の一人でした。
という訳で、今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀』より、酒井忠次の娘に求婚した牧野康成を紹介。果たして彼は、忠次の娘を娶ることが出来たのでしょうか。
危険な男に娘をやりたくない忠次。しかし家康は……
酒井忠次(左衛門尉)の娘は美人として大層評判だったようで、多くの男たちが憧れていました。が、家格を考えれば高値の花。実際に言い寄る者は少なかったようです。
そんな中、牧野康成(右馬允)は違いました。
「確かに、左衛門尉殿の娘は分不相応かも知れない。しかし、よい妻を娶れば、それに釣り合う夫になろうと努力する張り合いもあろうというものじゃ」
とまぁ、そんな噂がいつしか忠次の耳にも入り、半ば婚約が既成事実化しつつあったとか。
「左衛門尉殿。右馬允の件、いかがなさるおつもりか」
「うむ。右馬允も家中に名高き勇士なれば、娘もまんざらではないようなれど……あやつはとかく大胆じゃからのう」
ここで言う大胆とは、独立の野心を指します。隙あらば謀叛を企みかねない、そんな穏やかならぬ男に娘をやったら、いつ人質にされないとも限りません。
できればこの(一方的な)縁談はもみ消しておきたい……そんな話を聞いた徳川家康は、忠次を呼び出して言いました。