以前、徳川家康を暗殺せんと共謀した罪により、流刑と相成った大野治長。
その身柄は常陸の佐竹義宣に預けられましたが、後に赦されて関ヶ原の戦いに従軍します。
……また大野修理亮治長は先年の事により佐竹が方に預けられしを。こたび御ゆるし得て御本陣に候せり。……
※『東照宮御実紀附録』巻十
ここで武功を立てて名誉を回復しなければ……大いに意気込んだことでしょう。
今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀附録)』より、大野治長の武勇伝を紹介。果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」でも、描かれるでしょうか。
この首級は何者だ?
……戦のはじめ先陣にゆきて敵の首とりて馳かへりしに。匠作これへと仰せにてその功を慰労せられ。もはや先手にすゝむに及ばずと宣ひ。岡江雪とともに御本陣にありしとぞ。この折治長が得し首は誰とも知れざりしが。後にきけば浮田が家に高知七郎左衛門といふ者なるよし聞召。さほど名ある者と志らば。我その折たしかに見て置べきにと宣へば。治長は首一つにて両度の御賞詞を蒙りしと。時の人みなうらやまぬものはなし。(落穂集。明良洪範。)……
※『東照宮御実紀附録』巻十
時は慶長5年(1600年)9月15日。戦闘が始まるや飛び出して行った大野治長が、間もなく敵の首級を獲って来ました。
「おお、でかした!」
「匠作(しょうさく。修理亮=治長)よ、こちらへ参れ」
さっそく首級は実検に供されますが、この首級が誰のものかは判然としません。
でも、少なくとも相応の首級であると認められ、家康はご満悦です。
「ようやったぞ。そなたはもう前線へ出ることはない。本陣で我がそばにおれ」
「御意」
武功で名誉を回復した大野治長は、板部岡江雪斎(岡江雪。外交僧)と共に本陣に控えていました。