忠義をとるか?女をとるか?そりゃあもちろん……「三河武士の鑑」鳥居元忠はこうした【どうする家康 外伝】

時は天正10年(1582年)3月11日、甲斐国天目山(山梨県甲州市)で武田勝頼主従が自害。ここに数百年の歴史を誇った甲斐源氏の名門・武田家は滅亡してしまいました。

「まだ残党がいるやも知れぬ。草の根分けても見つけ出し、犬猫までも皆殺しにせい!」

織田信長の号令一下、甲斐国はじめ武田領内では凄惨な殺戮が繰り広げられたと言います。

そんな中、我らが神の君こと徳川家康は有能な武田家臣を一人でも召し抱えようと、見つけた者たちを必死で匿ったのでした。

合わせて女子供についても、織田勢の魔手(捕まったら何をされるか分かりません)から守るべく、必死に捜索したそうです。

今回は家康の命令を受けた鳥居元忠(彦右衛門)のエピソードを紹介。彼が探しているのは、武田旧臣・馬場信房(信春)の娘。果たして見つかるのでしょうか……?

彦右衛門にしてやられた!家康は呵々大笑

「……申し訳ございませぬ。どこにも居りませなんだ」

ずいぶん遅くなって陣に戻った彦右衛門。情報を元にあちらこちらと探し回ったそうですが、けっきょく馬場の娘は見つからなかったと報告しました。

「左様か。いったいどこへ行ってしまったのか……」

「お命じならば明日も探しますが、女子供にご執着なさるよりも、戦力になる男衆を探した方がよいのでは……」

「うむ、仕方あるまい。馬場の娘はもう探さんでよいぞ」

家康は残念そうです。娘を無事に保護できれば、少なくとも馬場一族は警戒を解いて臣従してくれるでしょう……でも、動機は本当にそれだけでしょうか。

「ははあ」

心なしか彦右衛門が嬉しそうなのも気になりますが……ともあれそんな事があって数日後。家康のもとに、ある者が訪ねてきました。

3ページ目 「馬場の娘は、いかがでしたか」

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