時は戦国、天正7年(1579年)9月16日。伊勢国を支配していた織田信雄(演:浜野謙太)が、父・織田信長(演:岡田准一)にことわりなく、伊賀国へと侵攻しました。これが後世に言う「天正伊賀の乱」の幕開けです。
しかし伊賀の国衆が力を合わせてこれを撃退。信雄は這々のていで逃げ帰り、天下の笑い者となってしまいました。
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これに激怒した信長は信雄を勘当。このままではすまさぬと、天正9年(1581年)に10万以上とも言われる大軍を動員して再び伊賀へ攻め込みます。
伊賀国衆は死力を尽くして善戦するも衆寡敵せず、ついに降伏しましたが許されず、人口の三分の一に当たる三万人(非戦闘員を含む)が殺戮の餌食となりました。
今回は強大な織田政権に抵抗した伊賀国衆の一人・百地丹波(ももち たんば)を紹介。彼の足跡を『伊乱記』等からたどってみましょう。
鬼瘤越の戦い(第一次天正伊賀の乱)
百地丹波は弘治2年(1556年)、伊賀国名賀郡喰代(ほうじろ。三重県伊賀市)の郷士・百地正永(まさなが)の子として誕生しました。
通称は新左衛門(しんざゑもん)、一説に諱(いみな。実名)は百地正西とも言うそうですが、読みは「まさにし」でしょうか。あるいは「しょうさい」かも知れません(ご存じの方がいましたら、出典ともどもご教示願います)。
丹波とは丹波守(たんばのかみ。国司)を意味しており、朝廷から正式に任官したものではない自称(官途名)です。
さっそく天正伊賀の乱における活躍を見て行きましょう。
鬼瘤越の軍将として、柘植三郎左衛門、副将尓は日置大膳亮、九月十六日乃未明に、松ケ島を打ち立ち、一千五百余騎の軍勢を引き具し、勢州榊原、満ヶ野辺の兵士を駆り立て、案内者丹具しありき、明けて十七日の未刻に、大峠、布引ヶ峯、鬼瘤越等の嶮しき道を凌ぎ、馬野口に発向す……
※『伊乱記』巻之二「信雄卿の従志鬼瘤越に乱入す」
鬼瘤越(おにこぶごえ)から攻め込む大将は柘植保重(つげ やすしげ。三郎左衛門)、副将には日置大膳亮(ひおき/へき だいぜんのすけ)。9月16日の未明に1,500余騎の軍勢を率いて出陣しました。
明けて9月17日の未刻(ひつじのこく。午後2時ごろ)に数々の難所を越えて、馬野口に向かったのです。
……喰代村に百地丹波、百々某、田中氏……
……各々器具を引きしめ、得道具を所持して馳せ向ふ、彼等の従類郎徒には、なハ、鎌、竹鎗等を一様尓取持たせ、村勢雑兵をかり立て、数千騎を従へ、勇士等ハ馬野口に競ひ来り、勇みかゝつて待ちかけたり……
※『伊乱記』巻之二「信雄卿の従志鬼瘤越に乱入す」
これに対する伊賀国衆の中から、喰代村を代表?して百地丹波や百々(どど)某、そして田中(たなか)氏が出陣。彼等の武器は縄や鎌、竹槍など貧相なものでしたが、自分たちの故郷を守るために気合いは十分。数千もの勢力に膨れ上がったのでした。
果たして決死の抗戦が実り、伊賀国衆は大勝利。柘植保重は討死、他の戦線においても総崩れとなって潰走します。
伊賀の国士等、此の度の一戦に、信雄卿を初め、郎従名将の歴々を、諸方に追ひ払ひ、或ハ討ち取り、其の外雑人原を討ち取る事、其の数を知らず、物乃見事に打ち勝ちければ、郷士の手柄、国民の本望、いかでか詞に述べ盡し得んと、大悦する事限りなし……
※『伊乱記』巻之二「伊賀国民栄花の事」
【意訳】伊賀の国衆は信雄はじめ名だたる武将たちを追い払い、あるいは討ち取り、ほかにも雑兵などの討死は数えきれないほど。ものの見事に勝利を収め、郷士らは大手柄。伊賀の領民は言葉に尽くせぬほどの大喜びです。
サブタイトルにもあるようにこれが伊賀の国民(くにたみ)にとって、絶頂の栄華でした。